HISTORICAL PERSON · 1194年没

孝宗 (宋)

南宋の皇帝として金との和議を結んで戦乱を収め、冤罪で処刑された岳飛の名誉回復や紙幣発行の抑制など国内改革を進め南宋の全盛期を築いた。

生涯
1194年没
死亡地
—
出生地
北宋(浙江省 / Xiu Prefecture)
出典
世界地図
北宋(浙江省)

伝記

孝宗は、南宋の第2代皇帝(在位1162年から1189年)である。名ははじめ伯琮といい、のちに瑗、瑋とあらためられ、最終的に眘となった。1127年(建炎元年)、秀安僖王趙子偁の子として、秀州の官舎で生まれた。兄に趙伯圭がいる。北宋の太祖趙匡胤の子孫で、太祖の四男の趙徳芳の六世の孫にあたり、太祖の子孫で初めて皇帝となった人物である。靖康の変で、初代皇帝高宗の父や兄、近い親族の多くが金に連れ去られていた。高宗の実子である趙旉は幼いうちに亡くなり、ほかに男子がなかったため、遠縁にあたる趙眘が探し出された。1133年に宮中に入り、1160年4月に高宗の養子となった。もう一人の親族である趙璩も養子になった。高宗は、この二人に十人の侍女を与えたところ、趙璩は全員に手をつけたが、趙眘はひとりにも触れず、これで高宗の信頼を得たと伝えられる。1162年7月に皇太子となり、同月に高宗から譲位されて、皇帝に即位した。ただし、高宗は太上皇として実権を持ち続けたため、孝宗が全権を握ったのは高宗が没してからである。

このころ、南宋は金に毎年多額の歳幣を送っていたが、1161年の海陵王の南宋遠征と、海陵王の死後の南宋による金への反撃とで、戦争状態にあった。金では世宗が即位して南宋の逆侵攻を退け、その後は南宋との関係の修復につとめた。孝宗も友好につとめ、1165年(乾道元年)に和議が成立した。この講和条件によって、金へ送られる歳幣の負担は軽くなった。国内では、余分な官吏の削減、乱発されていた紙幣の会子の発行の抑制、農村の生産力の回復、江南経済の活性化などの改革に取り組んだ。高宗の時代に処刑された対金強硬派の岳飛の名誉を回復し、秦檜派の残党も宮廷から一掃して、南宋の全盛期をつくった。

秦檜の強権的な政治への反省から、科挙官僚を中心とする士大夫層を抑えるため、宗室や武官のなかからも有能な人物を抜擢した。閤門舎人という官を設け、武挙に合格した武官のなかで学問にも通じた者をこれに任じて、側近とした。宰相の席を空けておくことも多く、北宋と南宋を通じて宰相が置かれなかった期間のべ77か月のうち、53か月が孝宗の時代であった。その間も、参知政事らの執政は置かれていたが、皇帝の力が強い時代であった。孝宗は、大臣が期待にそわなければ、ためらわずに罷免する厳しい皇帝でもあった。1166年には、農業を監督する下級官の莫濛が、わずか数か月で大臣らを罷免するのを諫めたが、孝宗は称賛しながらも、その言葉を取り上げなかった。大臣の力が強くなりすぎるのを避けるねらいがあったとも考えられる。日本との関係では、平清盛の平氏政権による日宋貿易が行われていた時期にあたるが、民間の交流と貿易にとどまり、正式な国交はなかった。

1189年(淳熙16年)、子の趙惇(光宗)に譲位して太上皇となったが、なお実権は握っていた。晩年は、孫の趙拡(のちの寧宗)を皇太子に立てる問題などで光宗と対立し、不和になったと伝えられる。1194年6月28日に、68歳で崩御した。皇后には夏皇后、謝皇后があり、子には長男の荘文太子、次男の魏恵憲王趙愷、三男の光宗、四男の邵悼粛王がいる。

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