HISTORICAL PERSON · 1194年没

レーモン5世 (トゥールーズ伯)

トゥールーズ伯として最初の市民集会を許可する一方、領内に広まった異端カタリ派の脅威をシトー会や教皇に訴え、南仏での異端弾圧のきっかけを作った。

生涯
1194年没
死亡地
フランス共和国(ガール県 / ニーム)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(ガール県)

伝記

レーモン5世は、1134年ごろに生まれ、1148年から1194年までトゥールーズ伯をつとめた人物である。トゥールーズ伯アルフォンス・ジュルダンと、ユゼス領主の娘フェイディヴァの長男にあたる。7歳のとき、リシュランシュの騎士団施設への寄進状に、未来の伯としてはじめて名が出ている。1148年、父は第2回十字軍で聖地へ向かい、カイザリアで死んだため、レーモンは14歳でトゥールーズ伯位を継いだ。トゥールーズでは、はじめて市民の集会を許し、これがのちの市政機関の起源となった。家臣のトランカヴェル家、アルビとカルカソンヌの子爵と、その弟のベジエ子爵には手を焼いた。トランカヴェルは、1150年にバルセロナ伯に臣従し、ナルボンヌの女子爵エルマンガルドやフォワ伯と手を結んだ。1153年、レーモンは、トゥールーズ伯領を荒らしていたトランカヴェルと、その家臣のモンペリエ領主らを捕らえた。捕らえたのは、トゥールーズの市民だったらしく、レーモンはその代償として、市民にいくつかの権利を譲った。ふたりは、銀3千マルクの身代金で解放された。

第2回十字軍から戻ったルイ7世は、妻のアリエノール・ダキテーヌと別れ、アリエノールはその8週間後に、ヘンリー・プランタジネットと再婚した。アリエノールは、祖母フィリッパを通じて、トゥールーズ伯領の継承権を主張していた。ヘンリーはこれを引き継ぎ、バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世と同盟した。これに対抗するため、レーモンは1154年にルイ7世の妹コンスタンスを妃に迎えた。1155年には、ルイ7世がサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の帰りに、トゥールーズ伯領を通っている。1159年、ヘンリー2世がトゥールーズ伯領を攻め、カオール、ヴェルダン・シュル・ガロンヌなどを奪い、8月にトゥールーズに着いた。市内にはルイ7世がいて、守りは固かった。3か月の包囲ののち、ヘンリーは封建上の約束から、ルイ7世に刃向かえず、包囲を解いた。戦いは1162年に再燃し、2年ののち、和平が結ばれた。1165年、レーモンは近親婚を理由に、教会の権威によって、コンスタンスと離婚させられた。

同じ1165年、ロンベールで、アルビ司教が聖職者や貴族の前で、異端とされる集団の人々に尋問した。彼らは自分たちを「善き人々」と呼び、カタリ派の影響を示していた。多くの質問への答えを拒み、旧約聖書を受け入れず、誓いも立てないと司教に説き、司教の裁判権にも異議を唱えた。1173年、レーモンはヘンリー2世に臣従し、会見を求めて、アリエノールと息子の若ヘンリーが謀反を企てていると警告した。ヘンリー2世は半信半疑だったが、若ヘンリーはルイ7世のもとへ逃げ、ヘンリー2世に反乱を起こした。アリエノールも反乱をあおり、他の息子たちも加わって、ヘンリー2世は苦境に立たされた。

1178年、レーモンは領内の異端と戦うため、シトー会に支援を求めた。アラゴン王アルフォンソ2世に西から迫られていたので、自分を信仰の守り手として示したかったためと考えられる。手紙で、異端がトゥールーズに広がり、家臣や貴族にまで及び、自分だけではとても抑えきれないと訴え、ルイ7世の軍事介入を望んで、王が来たときは領内の町や城の門を開くとまで書いた。教皇アレクサンデル3世は、ピエール・ド・パヴィーが率いる使節団を送り、1179年の第3ラテラノ公会議は、その処置を承認し、カタリ派を禁じた。レーモンは1194年にニームで死に、息子のレーモン6世が跡を継いだ。

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