HISTORICAL PERSON · 1142年没

岳飛

南宋の武将。金との戦いで幾度も勝利したが、勢力拡大を恐れた宰相の秦檜に39歳で冤罪により謀殺された。のち冤罪が晴れて鄂王に封じられ、救国の英雄として称えられ、関羽と並んで祀られている。

生涯
1142年没
死亡地
中華人民共和国(浙江省 / 杭州市)
出生地
中華人民共和国(湯陰県)
出典
世界地図
中華人民共和国(浙江省)

伝記

岳飛は、1103年3月に生まれ、1142年1月に没した中国南宋の武将である。字は鵬挙といい、相州湯陰県の出身である。生まれたとき、白鳥のような大きな鳥が家の屋根に舞い降りたため、飛と名づけられたと伝えられる。家は貧しい小作農ともいわれ、豪農の出ともいわれる。父は家の土地を人のために使っていたが、洪水でそれが失われたため、幼い岳飛も父を手伝って田を耕した。教育の多くは父から受けたという。父を亡くし、母の姚氏に育てられたともされる。

1122年、21歳のときに、北宋末期の開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に加わった。この年のうちに父が死んで、喪に服すため家に帰らなければならなかったともいう。岳飛は武勇に優れ、金との戦いなどで軍功を挙げて頭角を現し、1134年には清遠軍節度使、荊湖北路襄陽府潭州制置使に任じられた。しかし、高まる名声は、宰相秦檜の一派の反感と嫉視を招いた。1136年に母が死ぬと、岳飛は金との決戦の最中に軍を離れて服喪に入ったが、諸将に乞われて、服喪を切り上げて戻らなければならなかった。

1140年、岳飛は北伐の軍を起こして金の総帥斡啜の軍を破り、開封のすぐ近くにまで迫った。会戦は、現在の河南省開封市祥符区にあたる地で行われた。ところが秦檜の献策により、友軍に撤退の命令が出され、孤立した岳飛の軍も退くしかなかった。これは『宋史』の記録であるが、『金史』にはこの会戦の記録がない。その後、秦檜によって金との和議が進められた。主戦派の筆頭で、民衆に絶大な人気があった岳飛は、秦檜にとって危険な存在だった。1141年12月、秦檜は岳飛と子の岳雲、岳家軍の最高幹部の一人に冤罪を着せて殺した。表向きは謀反の罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と問うと、秦檜は「あったかもしれない」と答えたという。岳飛は39歳、岳雲は23歳であった。岳飛の背には、母が彫ったとされる「尽忠報国」の入れ墨があったという。

1162年に孝宗が即位したのを機に、岳飛の冤罪は晴れ、官職の回復と改葬が行われた。岳飛には武穆の諡が贈られ、これは1169年とも1178年ともいわれる。のちには鄂王に追封され、その時期は1204年とも1211年ともされ、岳鄂王とも呼ばれる。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建てられた。岳飛と岳雲の墓の前には、2人を陥れた秦檜夫妻や張俊らが、縄でつながれて正座する像が置かれた。かつてはこの像に唾を吐きかける風習があったが、近年は禁じられている。

岳飛の伝記は、没後60年ほどたって、孫で詩人・歴史家の岳珂が書いた。これは1346年に『宋史』に取り入れられたが、鄧広銘ら後世の歴史家のなかには、岳珂が祖父について述べたことの多くを疑う者もいる。岳飛の子には、岳雲のほか岳雷、岳霖、岳震、岳霆がおり、17世の孫には清の武将の岳鎮邦がいる。岳飛は後世、救国の英雄として称えられ、劉光世、韓世忠、張俊とともに「中興四将」として描かれた。明代には「靖魔大帝」に封じられて神格化され、関羽と並んで祀られた。書にも優れ、小説や京劇にもよく取り上げられる。今日でも中国の歴史上の英雄といえば、まず岳飛の名があがるほどである。

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