HISTORICAL PERSON · 1193年没

陸象山

南宋の儒学者・官僚で、朱熹の論敵として知られる。「心即理」を唱えて心そのものが理だと主張し、その学統は明代の王陽明に受け継がれ「陸王学」と呼ばれる。1175年に朱熹と論じた「鵝湖の会」でも名高い。

生涯
1193年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江西省 / 金渓県)
出典
世界地図
中華人民共和国(江西省)

伝記

陸象山は、紹興9年2月24日(1139年3月26日)に生まれ、紹熙3年12月14日(1193年1月18日)に没した、中国南宋の儒学者であり官僚である。名は九淵、字は子静で、象山は号である。諡は文安という。撫州金渓県青田の人で、朱熹と同じ時代に生き、その論敵として知られる。その一族は、およそ200年にわたり何世代もが同居することで有名で、時の王朝から義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。兄の陸九韶と陸九齢も著名な学者で、兄弟を三陸と称することもある。13歳のとき、「宇宙内の事はすなわち己が分内の事、己が分内の事はすなわち宇宙内の事なり」と書き残している。ここには外の現象と心の内とを同一視する傾向が見られ、成長するにつれて彼はこれを深めていった。進士に及第したのち、地方官と中央官として経験を積んだ。

朱熹とは同じ時間を生き、また象山の兄たちは朱熹と親交があったため、二人はしばしば手紙で論争した。互いに相手の学説を非難したが、基本的には尊敬の念をどちらも抱いていたらしい。1175年には、呂祖謙の仲介によって直接会って論じ合い、これが中国思想史上有名な「鵝湖の会」である。朱熹が講学していた白鹿洞書院に招かれて、講演したこともある。49歳のときに、信州の応天山に私塾をひらいて講学を行ったが、その数年後に肺結核のため世を去った。没年を1192年とする記述もある。

象山の思想は「心即理」という言葉で特徴づけられる。朱熹は、心を「性」(人が本来もつ善なる本性)と「情」に分け、「性」こそが「理」(ものごとをあるべくしてあらしめる天のことわり)だとして、「性即理」と説いた。象山はこれに対し、心を分析して性と情、天理と人欲に区別することをよしとせず、心そのものが「理」であるとした。このため、象山の思想は心学と呼ばれる。彼は「宇宙は私の心であり、私の心は宇宙である」と述べ、心こそがあらゆるものを包むものだと考えた。朱熹が、人の心と道の心を別のものとしたのに対し、象山は両者は同じだと主張し、朱熹の二元論に激しく反対した。象山は「六経、みなわが心の注釈なり」と述べ、権威ある六経よりも自らの心を上に置いた。もちろん彼自身が六経をおろそかにしたことはなかったが、この考えは、のちに明代に花開く陽明学左派の思想を準備することになった。孟子の影響を強く受け、孟子が唱えた四端を人はみな生まれながらに備えると考えた。仏教や道教の影響も受け、孟子の考えに形而上学的な面を加えた。

象山は明確な師弟関係を持たなかったが、その学統は、程明道、謝上蔡と受け継がれてきた「万物一体の仁」に連なる。それはのちに明代に王陽明に受け継がれ、「陸王学」あるいは「心学」と呼ばれた。象山の没後、その学問には中国であまり多くの門人は集まらず、ほとんど忘れられていたが、王陽明が文集を再び出版して注釈を書いたことで広まった。象山の文章は、没後13年の開禧元年(1205年)に、長子の陸持之がはじめて編集し、高弟の楊簡が序を書いて、『文集』28巻と『外集』6巻が成立した。2年後の開禧3年に、門人の高商老が撫州で刊行した。この本には欠けが多かったので、陸持之が遺文を集めて増補し、32巻とした。嘉定5年(1212年)9月に、高弟の袁燮が序を書き、江西から刊行された。

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