伝記
ハーフィズ・アル=アサドは、1930年10月6日にシリア北部のアンサーリーヤ山地にあるアラウィー派の小村で、貧しい家庭に生まれた軍人・政治家である。姓のアル=アサドは「獅子」を意味し、祖父の通称をもとに1920年代に一族が名乗るようになったとされる。高校在学中の1946年、16歳でバアス党に入党するなど早くから政治活動に熱心だった。ラタキアの高校を首席で卒業したが、経済上の理由で大学進学を諦め、1952年にアレッポの飛行士官学校に入った。ソ連での訓練を経て1955年に卒業し、少尉としてシリア空軍に入隊した。
アラブ連合共和国が成立するとカイロに派遣されて戦闘飛行隊長となり、後のエジプト大統領ホスニー・ムバラクとともに訓練を受けた。しかしエジプトとの連合に懐疑的だったため軍を解雇された。カイロでは同じアラウィー派のサラーフ・ジャディード、ムハンマド・ウムラーンと秘密軍事委員会をつくってバアス党の運動に加わり、帰国後の1963年3月8日の革命に参加した。バアス党政権が発足すると国防相を務め、1966年から1970年までは空軍司令官も兼ねた。
1967年の第三次中東戦争でゴラン高原を失うと、党内ではジャディード率いる急進派と、アサドを指導者とする穏健・現実派が対立し、1969年2月に穏健派が実権を握った。1970年9月のヨルダン内戦では、シリアのアターシー大統領が陸軍部隊をヨルダン領内に入れたが、かねてからPLOの姿勢に懐疑的だったアサドは大統領の出動命令を拒んだ。同年11月、彼は矯正運動と呼ばれるクーデターでジャディードとアターシーを失脚させて全権を握り、首相と国防相を兼ね、書記長に就任して、翌1971年に国民投票で大統領に選ばれた。ゴラン高原の奪還を目標に、エジプトのサーダート大統領と組んで第四次中東戦争に参戦し、ソ連との結びつきも強めた。国内では事実上の一党独裁と軍事力で民心を引き締め、シリア・ムスリム同胞団を抑圧した。1976年からはレバノン内戦に派兵してレバノンを事実上の影響下に置いた。
1970年代後半から経済が悪化し、少数派のアラウィー派を優遇したことがスンニ派の反発を招いた。1982年に中部の都市ハマーでイスラム主義勢力が起こした暴動は武力で鎮圧され、ハマー虐殺と呼ばれる。1983年、彼が心臓病で入院している間に、弟のリファアトがクーデターを計画し、軍は二つに割れて内戦寸前となった。回復した彼はリファアトを副大統領に据えて懐柔し、勢力を削いだのち、1984年にフランスとスペインへ追放した。イラン・イラク戦争ではアラブ諸国で唯一イランを支持し、1990年の湾岸戦争ではイラクと国交を断ち、多国籍軍の一員としてサウジアラビアに派兵した。1990年代にはイスラエルとの交渉を始めたが、ゴラン高原の全面返還を譲らず停滞した。
1994年に長男バースィルを交通事故で失うと、ロンドンで医師だった次男バッシャールを呼び寄せて後継者に育てた。古参の軍幹部を退役させ、降格するなど、世襲の基盤固めを進めた。2000年6月10日、レバノンの首相との電話会談中に心臓発作で死去し、69歳だった。後継にはバッシャールが就いたが、2024年12月に政権は崩壊した。
同じ年に亡くなった人物
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- ウィリアム・サイモン (2000年没)
- Johann Urbanek (2000年没)
- フィル・カッツ (2000年没)
- シェイ・ブレナン (2000年没)
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- ヘンリー・バックル (1862年没)
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