伝記
デメトリオス1世ソテルは、セレウコス朝シリアの第10代の王である。紀元前187年ごろに生まれ、紀元前162年から紀元前150年まで在位した。父はセレウコス4世、母は妃のラオディケ4世で、その三男とされる。弟のアンティオコスと、少なくとも一人の姉妹ラオディケがおり、このラオディケはマケドニア王ペルセウスに嫁いだ。
紀元前176年から紀元前175年ごろ、アパメイアの和約に基づいて、父王は叔父のアンティオコス4世に代わる人質としてデメトリオスをローマへ送った。その後、父がヘリオドロスに暗殺され、叔父が王位を奪ったため、デメトリオスは15年ほどローマにとどまることになった。ローマにとって彼を留め置くことは、王位から遠ざけ、シリアの王への圧力の道具にする好都合な手段だった。一方、ローマにいたおかげで、叔父が紀元前170年に兄を殺した企てからは逃れられた。生活は手厚く保障され、スキピオ派や歴史家ポリュビオスと親しくなった。ポリュビオスは彼を、美しく、活動的で、品位を重んじる王子として好意的に描いたが、酒におぼれる欠点も隠していない。
紀元前164年にアンティオコス4世が死ぬと、デメトリオスは元老院に王位継承の権利を訴えた。しかし元老院は、幼い王アンティオコス5世と不人気な摂政リュシアスを望み、父がローマの敵だった活動的な王子を退けた。ローマの使節グナエウス・オクタウィウスが殺された後にも再び訴えたが、却下された。そこで彼は、一部の元老院議員やポリュビオスの協力を得てローマを脱出し、フェニキアのトリポリに上陸してアンティオキアへ入った。アンティオコス5世とリュシアスは処刑され、紀元前162年に即位した。元老院は不満で、承認はやや遅れたとされる。
即位後のデメトリオスは精力的だが反発も多い王だった。尊大で酒好きな性格から、アンティオコス4世の気前のよさを懐かしむアンティオキアの人々に嫌われ、首都を離れて要塞にこもったという。やがて上部諸太守領の総督ティマルコスが、ローマ元老院の好意を得て大王を称して反乱を起こし、メソポタミアに侵入して圧政を敷いた。デメトリオスは迅速に出陣して彼を破り、殺した。この勝利で元老院も彼を承認し、バビロニアの人々から「ソテル(救世主)」の称号を贈られた。ただし、この反乱の鎮圧がメディアに影響を残し、十年後のパルティアに対する支配の崩壊につながった可能性が指摘される。
ユダヤでは、将軍ニカノルがユダ・マカバイに敗れて戦死したが、ユダも続くバッキデスの遠征で戦死した。二年ほど秩序が戻った後、ヘレニズム派がユダヤ人を率いるヨナタンの排除を図ったが、バッキデスは交渉の末にヨナタンの側に立った。カッパドキアでは、王アリアラテスが結婚の申し出を断ったため、デメトリオスは紀元前158年にその弟オロフェルネスを支援したが、ペルガモン王の助力でアリアラテスが復位した。さらにキプロスの奪取を試みて、エジプトの王も刺激した。オロフェルネスは紀元前156年にアンティオキアへ逃れたが、支援が足りなかったとして首都でデメトリオスへの反乱をたくらんだという。こうした対立が重なり、ペルガモン、カッパドキア、エジプトの利害が一致して、彼は追い込まれた。ペルガモン王はアンティオコス4世の子を名乗るバラスを見つけてローマに送り、財務長官だったヘラクレイデスも、元老院に働きかけた。デメトリオスは長男をローマへ送って弁明させたが成功せず、紀元前150年にバラスの軍に敗れて殺された。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・フラミニウス (紀元前187年の執政官) (紀元前 150年(推定))
- イェシュア・ベン・シラ (紀元前150)
- マニウス・アクィッリウス (紀元前129年の執政官) (紀元前 150年(推定))
- プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前171年の執政官) (紀元前 150年(推定))
- Seleucus of Seleucia (紀元前150)
同じ地域に関係する人物
- タンクレード (ガリラヤ公) (1112年没)
- アンティオコス11世 (紀元前91)
- ヘリオドロス (紀元前174)
- アンティゴノス (ハスモン朝) (紀元前37年没)
- アンティオキアの聖バビラス (251年没)