HISTORICAL PERSON · 紀元前174没

ヘリオドロス

セレウコス4世の宰相。エルサレム神殿への課税を試みたと伝わる。王の死後に摂政を称したが、その統治は短命に終わった。

生涯
紀元前174没
死亡地
—
出生地
トルコ共和国(ハタイ県 / アンティオキア)
出典
世界地図
トルコ共和国(ハタイ県)

伝記

ヘリオドロスは、セレウコス朝のセレウコス4世フィロパトル(在位は紀元前187年頃から紀元前175年)に仕えた宰相である。ユダヤの歴史書には、エルサレムの神殿に課税しようとした人物として記録されている。紀元前175年頃に主君が死ぬと摂政を名乗って政権を握ったが、その座は短期間で失われた。没年は紀元前174年とされる。

当時のセレウコス朝は、アパメイアの和約で課された重い賠償金を、毎年ローマ共和国に支払う立場にあった。このため課税が重くなり、政府は資金を探し求めていたと考えられる。紀元前178年頃、セレウコス4世はエルサレムの神殿に財宝が隠されているという噂を聞いたのか、ヘリオドロスを金の徴収のために同地へ送った。旧約聖書外典の「マカバイ記二」の第3章は、神殿に入って宝物を取ろうとしたヘリオドロスが、人の姿で現れた霊的な存在に追い返されたと語る。天使の働きかどうかはともかく、徴収の任務は失敗に終わったとみられ、後のユダヤ人はそれを記念した。この出来事はダニエル書にも反映されている可能性があり、「王の栄華を保つために徴税人を送る」という一節が関連づけられている。

碑文やパピルスにも、ヘリオドロスという名の高官が見える。名前自体はありふれているが、おそらく同一人物を指す。2000年代には、ギリシア語の碑文を刻んだ古い石碑が見つかった。紀元前178年付けのセレウコス4世の布告で、王はヘリオドロスに宛てて、オリュンピオドロスという人物をコイレ・シリアとフェニキアの神殿の管理に任ずると知らせている。この石碑の一部は古美術市場から出たもので、2005年にマレシャのヘレニズム期の家の地下室で見つかった断片が欠けた部分を補い、ぴたりと合って、現在はエルサレムのイスラエル博物館に展示されている。石碑は2007年にマイケル・スタインハートが入手して同館に貸与したが、2021年12月に略奪品とされた180点の一つとして、ニューヨーク州マンハッタンの地区検事局へ引き渡すことに同意した。2022年1月7日の時点では、なお同館に展示されていた。

セレウコス4世の死について、歴史家アッピアノスは、ヘリオドロスが王の殺害を手配したと記す。真偽は不明だが、ヘリオドロスは王の死後、幼い王子アンティオコスのために摂政を名乗った。長男デメトリオスは当時ローマで人質となっており、脅威にならなかった。しかし摂政の座はわずか数か月で終わった。アテネに亡命していた王の弟アンティオコス4世エピファネスが、ペルガモン王エウメネス2世の助けを得てアンティオキアに入り、ギリシア系の貴族たちに自分の主張を支持させたのである。一方で、碑文は王が単に「世を去った」と記すだけで、自然死を思わせる。アッピアノスの一文が正確かどうかには疑問があり、殺害は世間の憶測にすぎなかったのか、実際に殺害されたが一部が隠されたのか、判然としない。

ヘリオドロスのその後の運命は不明である。アンティオコス4世の即位後も生き延びたとしても、宮廷に残ることは許されず、亡命した可能性のほうが高いと考えられている。宗教改革と反宗教改革の時代には、神殿から天使に追い払われる場面が、教会財産の不可侵を示す象徴としてカトリックの弁証に用いられ、ラファエロが1512年に描いた「神殿から追放されるヘリオドロス」をはじめ、多くの画家の主題となった。ほかにも1566年のワウテル・クラベト、1727年のティエポロ、1860年のシュノル・フォン・カロルスフェルト、1861年のドラクロワらがこの場面を描いている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物