伝記
マリア・コムネナは、ハンガリー王イシュトヴァーン4世の王妃となった、ビザンツ帝国の皇族の女性である。1144年ごろに生まれた。父は、皇帝ヨハネス2世の子で、皇帝マヌエル1世の兄にあたるイサキオス・コムネノスである。母はその最初の妻テオドラで、ハンガリー王ラースロー1世の血を引くとされる。異母妹のテオドラはエルサレム王ボードゥアン3世の妃となり、もう1人の異母妹エウドキアはモンペリエ領主ギレム8世の妃となった。姉イレーネの子イサキオスは、キプロスで皇帝を名のった。
1153年、叔父のマヌエル1世は、マリアと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世との婚約を決めたが、婚約は程なくして解消された。1156年か1157年、マリアは、ハンガリー王ゲーザ2世の弟で、兄に対する陰謀に失敗してコンスタンティノープルへ逃れていたイシュトヴァーンに嫁がされた。マヌエルは、母ピロシュカがラースロー1世の娘であることから、ハンガリー王国の領土を手に入れる権利が自分にあると感じていたらしい。マリアを嫁がせ、ビザンツ軍で支えれば、イシュトヴァーンがハンガリーの支配を握ると期待したのである。
1162年にゲーザ2世が死ぬと、マヌエルはイシュトヴァーンを王位に就かせようとして軍を整えた。しかしハンガリーの貴族たちは、イシュトヴァーンのもう1人の兄弟ラースロー2世を王に選び、ラースローは王国の3分の1をイシュトヴァーンに与えた。ラースロー2世は1163年1月14日に急死し、毒によるともいわれる。夫がイシュトヴァーン4世として王となったので、マリアはハンガリーの王妃になった。
しかしイシュトヴァーン4世は、1163年6月19日、甥のイシュトヴァーン3世の軍に敗れ、マリアはまもなくコンスタンティノープルへ逃げた。夫は、ビザンツの影響が強いことで人気がなく、妻と別れて甥と戦いを続けたが、1165年4月11日に死んだ。のちの混乱の責めを負わされ、長いあいだ葬られることがなかったとも伝えられる。マリアは、夫の死のあと25年生きたが、再婚せず、2人のあいだに子はなかった。1190年ごろ、コンスタンティノープルで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・オブ・ニューバラ (1190年(推定))
- ベルナルト・デ・ヴェンタドルン (1190年(推定))
- 西行 (1190年没)
- ルートヴィヒ3世 (テューリンゲン方伯) (1190年没)
- Dominicus Gundissalinus (1190年)
同じ地域に関係する人物
- アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ (2020年没)
- Ayse Sultan (1640年没)
- セデフカル・メフメト・アーガー (1617年没)
- コンスタンティノス10世ドゥーカス (1067年没)
- Ahmet Berman (1980年没)