伝記
西行は、1118年に生まれ、1190年3月30日(建久元年2月16日)に没した、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶、歌人である。俗名は佐藤義清といい、西行は号で、僧名は円位という。父は左衛門尉の佐藤康清、母は監物の源清経の娘で、源清経は文武に秀でた人物だったとされる。父方は藤原魚名を祖とする魚名流藤原氏で、祖父の佐藤季清も父の康清も衛府に仕え、紀伊国田仲荘を知行地としていた。生誕の地は、田仲荘とする説と、生活の基盤があった京都とする説がある。
祖父の代から徳大寺家に仕え、15、16歳のころには、自らも徳大寺実能に出仕していた。1135年には左兵衛尉に任ぜられ、鳥羽院に下北面武士としても仕えた。同じころの北面武士には平清盛がいる。徳大寺公重の菊の会に招かれて、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠み、すでに歌人としての評価を得ていたという。1140年10月、出家して西行法師と号した。出家のときには、衣の裾に取りついて泣く4歳の子を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。動機については、親しい友の死とする説や、高貴な女性への失恋とする説があり、失恋の相手は待賢門院璋子だったともいわれる。妻子については、否定する説と肯定する説がある。出家後は東山、嵯峨、鞍馬などに草庵を営み、30歳ごろに陸奥へ最初の長い旅に出た。1149年ごろには高野山に入った。
1168年には、崇徳院の白峯陵を訪ねて四国へ旅した。この旅は、のちに上田秋成が『雨月物語』の「白峯」に仕立てている。弘法大師の遺跡の巡礼も兼ねていたとされる。高野山に戻ったあと、1180年ごろに伊勢国へ移った。1186年には、東大寺再建の勧進のために2度目の陸奥行きをして、藤原秀衡と会った。その途中の鎌倉では、源頼朝と会って、歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。頼朝から弓馬の道を尋ねられて、「一切忘れた」ととぼけたという話や、頼朝から贈られた銀の猫を、通りがかりの子どもにやったという話も伝わる。1187年には、自選の歌合『御裳濯河歌合』をつくって藤原俊成に判を求め、『宮河歌合』をつくって、まだ新進の歌人にすぎなかった藤原定家に判を求めた。この2つの歌合は、伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された。
伊勢国に数年住んだのち、河内国の弘川寺に庵を結び、1190年にこの地で亡くなった。73歳だった。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いのとおりに死んだとして、その生きざまが、藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時の名声を高めた。
和歌は約2300首が伝わる。勅撰集には『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入集数第1位)をはじめ、二十一代集に計265首が入る。家集に『山家集』『山家心中集』『聞書集』がある。後鳥羽院は『後鳥羽院御口伝』で「生得の歌人」「不可説の上手」と評した。歌風は率直で質実を旨とし、強い情感をてらわずに表現するもので、隠棲の趣味の和歌を完成させ、寂寥と閑寂の美を盛り込んで、中世的な叙情を準備した。後世への影響は大きく、宗祇や芭蕉にまでその流れが続いた。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝) (1190年没)
- アレクサンドル・ド・ベルネー (1190年(推定))
- ベルナルト・デ・ヴェンタドルン (1190年(推定))
- デド3世 (ラウジッツ辺境伯) (1190年)
- ルートヴィヒ3世 (テューリンゲン方伯) (1190年没)