HISTORICAL PERSON · 1067年没

コンスタンティノス10世ドゥーカス

東ローマ帝国ドゥーカス王朝の初代皇帝(在位1059〜67年)。イサキオス1世の退位後に元老院議員から即位したが、軍事を軽視して外敵の侵攻を許し、財政難から官職売買を導入して官制を乱した。

生涯
1067年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(アナトリア)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

コンスタンティノス10世ドゥーカスは、1006年頃に生まれ、1067年5月に没した東ローマ帝国の皇帝で、1059年から1067年まで在位し、ドゥーカス王朝の初代皇帝となった。父はアンドロニコス・ドゥーカスで、パフラゴニアの大土地所有者の家柄に属する。初期の経歴はほとんど知られていないが、将軍コンスタンティノス・ダラセノスの娘を妻としており、ダラセノスがアンティオキアでの反乱を理由に前帝の大臣だった孤児院長ヨハネスの命で投獄されたとき、1034年に彼も短期間投獄され、所領に退いたという。

彼が再び史料に現れるのは1057年である。小アジアの将軍たちが時の皇帝に対する陰謀を企て、ロマノス・スクレロス、ミカエル・ブルツェス、ニケフォロス・ボタネイアテスらがパフラゴニアのグナリアに集まって新皇帝を擁立しようとしたとき、最初の候補はコンスタンティノスだったらしい。しかし彼はこれを断り、イサキオス・コムネノスに譲って自らは第二の座に就いた。即位したイサキオスは彼をカエサルに任じ、事実上の後継者の位置に置いた。やがてイサキオスの一人息子が世を去ったため、皇帝は後継者を決めることになった。皇后が権力を手放さぬよう懇願したにもかかわらず、イサキオスはコンスタンティノスの昇位を認めたとされる。ただし、魅力的で誰からも好かれる知識人だが断固たる強さに欠けるこの人物に、改革を続ける気力があるのかと皇帝が疑ったともいい、史家ミカエル・プセロスはその翌日に彼を玉座に座らせ、紫の靴を履かせて元老院と軍の将校たちの前に示したという。イサキオスの皇后カタリナは、その後しばらく宮殿にとどまったが、やがて娘とともにミュレライオン修道院に入った。こうして、元老院議員であった彼は、1059年、53歳で帝位に就いた。

統治にあたっては、弟のヨハネス、プセロス、そして先の総主教の姪にあたる妻エウドキア・マクレンボリティサに頼った。前帝の急な改革が官僚や教会の反感を買ったことを踏まえ、その政策を覆した。プセロスは、彼を華やかな官職を軽んじ、身なりも質素で控えめな人物と描き、公正と秩序を第一に考えたと伝える。これに対しゾナラスは、男系が絶えたため母方を通じてのみドゥーカス家に連なるにすぎないと述べ、アタレイアテスとともに、その金銭への執着を非難し、それが軍の軽視につながったとする。一方で、当時の年代記作者は、彼が非常に信心深く、不正を憎み、当時ありふれた身体刑を課そうとしなかった点では一致している。

軍事を軽視した結果、軍事力は低下した。東からはセルジューク朝、北からはペチェネグ、西からはノルマン人が攻め寄せ、領土は次々に侵食された。ノルマン人には南イタリアに残る領土を奪われ、バルカンではマジャル人がベオグラードを占領し、小アジアでは皇帝の軍がスルタンのアルプ・アルスラーンの軍に何度も敗れた。財政難を補うために官職売買を導入したことで官制は乱れ、中央政府の地方への行政能力も低下し、元老院議員は1万人を超えたという。

エウドキアとの間には、のちに皇帝となるミカエル7世ドゥーカスや共同皇帝となったアンドロニコス、コンスタンティオスらが生まれた。しかし彼の没後、エウドキアが再婚したロマノス4世ディオゲネスが帝位を継いだ。

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