伝記
フリードリヒ1世は、一一二二年に生まれ、一一九〇年六月十日に没した、ホーエンシュタウフェン朝第二代のローマ王であり、同王朝初代の神聖ローマ皇帝である。赤髭を意味するイタリア語から、バルバロッサの愛称で知られる。父はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世(独眼公)、母はバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディトで、当時の帝国を二分した二つの有力な家門の血を引いていた。生地は確かには分かっておらず、ラーフェンスブルク近郊の、母の郷里に近い城で生まれた可能性が高いとされる。一一四七年に父が死ぬとシュヴァーベン大公位を継ぎ、伯父の国王コンラート3世が諸侯とヴェルフ家との争いを収めようとするなかで、中立的な立場をとり、時にヴェルフ家を守る側に回ったらしい。
一一五二年二月にコンラート3世が急死すると、三月四日にフランクフルトでローマ王に選ばれ、九日にアーヘンで戴冠した。この素早さは、コンラートがすでに継承の準備を進めていたことによると考えられている。フライジングのオットーは、コンラートが自分の子ではなく甥を推したと伝えるが、記録が戴冠の五年後に書かれたため、その説明が正しいかどうかは疑わしい。実際には、フリードリヒが対立する諸勢力の支持を外交でまとめたのだろうとみられる。一一五六年には宿敵の従弟ハインリヒ獅子公にバイエルン公位を与えて和解し、バイエルンからオストマルクを切り離してオーストリア公領に昇格させ、これを前のバイエルン公ハインリヒ・ヤゾミルゴットに与えることで、バーベンベルク家との融和も実現させた。一一五四年十月にイタリアへ遠征し、翌年六月十八日に教皇ハドリアヌス4世から皇帝の冠を受けた。
その後はイタリア政策に力を注ぎ、一一五七年から教皇と対立して、生涯に五回のイタリア遠征を行った。ハドリアヌス4世が一一五九年に没すると、アレクサンデル3世と対立教皇ウィクトル4世が並び立ち、十八年に及ぶ教会分裂が起こった。皇帝は一一六〇年にアレクサンデル3世から破門され、一一六二年には敵対するミラノを破壊した。一一六八年から北イタリアの諸都市がロンバルディア同盟を結ぶと、一一七四年に再び遠征したが、獅子公に援軍を断られ、一一七六年のレニャーノの戦いで大敗した。同年、アナーニで教皇と交渉し、アレクサンデル3世を正式な教皇と認めるなど譲歩を迫られた。一一七七年のヴェネツィアの和約で六年間の休戦が成り、教会分裂も終わった。一一八三年にはコンスタンツの和約で都市同盟を承認し、その代わりに皇帝の諸権利を認めさせて、イタリアの問題に一応の決着をつけた。
国内では宿敵ハインリヒ獅子公を追放し、シチリア王国と婚姻関係を結んで、息子ハインリヒ6世のシチリア王位戴冠につなげた。一一五六年にブルゴーニュ女伯ベアトリスと再婚し、十二人の子をもうけたとされる。
一一八九年、第三回十字軍の総司令として出征し、翌年イコニウムの戦いでルームセルジューク軍を破った。しかし一一九〇年六月、小アジア南東部のキリキアで、川で溺れて没したという。死因は卒中とも暗殺ともいわれ、諸説ある。この意外な最期のため、多くの人が崩御を信じず、皇帝は眠りについていて、帝国が危機に陥るとき目覚めるという伝説が生まれた。ナチス・ドイツのソ連侵攻作戦の名は、彼のあだ名に由来する。
同じ年に亡くなった人物
- デド3世 (ラウジッツ辺境伯) (1190年)
- マリア・コムネナ (ハンガリー王妃) (1190年没)
- 西行 (1190年没)
- ヘルマン4世 (1190年)
- ゴドフロワ3世 (ルーヴェン伯) (1190年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。