伝記
ウラジーミル・ムスチスラヴィチは、リューリク朝のキエフ大公である。ウラジーミル・モノマフの孫で、ムスチスラフ1世と、2番目の妃リューバヴァ・ドミートリエヴナの子として生まれた。年代記によれば、生まれたのは1131年3月1日から1132年2月29日のあいだとされる。生涯を通じて、ハンガリーやセルビアとは良い関係を保った。1150年、セルビアの公でクロアチアのバンでもあったベロシュ・ヴカノヴィチの娘と結婚した。古いロシアの年代記には、その名が「バノヴナ」と記されている。二人のあいだには4人の息子が生まれ、ムスチスラフはドロゴブージ公に、ヤロスラフはノヴゴロド公になった。
1150年から1154年まで、ウラジーミルはドロゴブージ公をつとめた。兄イジャスラフが、チェルニゴフのオリゴヴィチ家やユーリー・ドルゴルーキーと争ったときには、兄を助けた。1150年、イジャスラフとともにウラジーミル・ヴォルィニスキーに入り、ユーリーを支持するガリツィアの公たちと戦った。1154年に兄が亡くなると、ユーリーからウラジーミル・ヴォルィニスキーを与えられ、1157年までここを治めた。1156年には、甥のムスチスラフと戦い、1157年にはトゥーロフを取りに出かけ、1159年にはガリツィアに向かった。ムスチスラフが大公になると、しばしばこれを裏切った。ポロヴェツ人と通じたとして、ドロゴブージを取り上げられたこともある。1162年にスルツクの公となり、同じ年から1168年までトリポリエの公をつとめた。キエフを奪った甥にいったん捕らえられたが、ハンガリーへ逃れた。ただ、そこでも確かな支援は得られなかった。
1170年に、ドロゴブージ公に戻った。翌1171年に、キエフの大公の家の者たちから大公に選ばれた。彼らは、スーズダリの公たちの力が増すのを案じていた。当時は、リューリク朝の従兄弟たちのあいだで内戦が絶えなかった。ウラジーミルは領民にあまり好かれず、「大公」の称号を名乗ることもできなかった。アンドレイ・ボゴリュプスキーから、キエフを去るよう命じられたのは、即位から3か月ほど後のことだった。アンドレイは、この町を自分の支配下に置く意思を示すため、長男のロマンならキエフを治めてよいと告げた。
歴史家マフノヴェツは、治世を2月5日から5月10日までの3か月と数日と推定している。年代記が「4か月」と書くのは、半端な期間を切り上げる習慣によるという。治世があまりに短いため、キエフ大公の一覧に載らないことも多い。ウラジーミルは1173年に没した。没年を1171年とする記述もある。
同じ年に亡くなった人物
- サン=ヴィクトルのリカルドゥス (1173年)
- 毅宗 (高麗王) (1173年没)
- ボレスワフ4世 (1173年没)
- ラインバウト・ダウレンガ (1173年没)
- ナジムッディーン・アイユーブ (1173年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴォロディーミル・カプリチニー (2004年没)
- Michael I of Kyiv (992年没)
- アレクサンドル・ボゴモーレツ (1946年没)
- ウラジーミル1世 (1015年没)
- フセヴォロド1世 (1093年没)