HISTORICAL PERSON · 1093年没

フセヴォロド1世

キエフ大公。兄2人との三頭政治でルーシ法典に新条項を加え、殉教者ボリスとグレブの聖遺物を移す儀式を行い国家の求心力を高めようとした。

生涯
1093年没
死亡地
ウクライナ(キーウ / ヴィーシュホロド)
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
ウクライナ(キーウ)

伝記

フセヴォロド一世は、一〇三〇年ごろにヤロスラフ一世とインギゲルドの子として生まれたルーシの公で、のちにキエフ大公となった。父の五男であり、とくに可愛がられたとされる。ヴセヴォロドとも表記され、晩年の印章にはギリシャ語でアンドレイの名が記されているため、洗礼名はアンドレイだったと考えられる。一〇四六年、父は東ローマ帝国との休戦を補強するため、フセヴォロドを東ローマの公女と結婚させた。この妃は皇帝コンスタンティノス九世モノマコスの娘とも近親ともされるが、正確な続柄は確定しない。妃の名にもアンナ、アナスタシヤ、マリヤなどの伝承がある。夫妻には一〇五三年にウラジーミル・モノマフが生まれ、娘アンナも生まれた。

一〇五四年に父が死去すると、フセヴォロドはペレヤスラヴリのほか、ロストフ、スーズダリ、ベロオーゼロを相続した。兄イジャスラフはキエフ、兄スヴャトスラフはチェルニーゴフなどを継ぎ、三人は協力して統治する体制を形作った。兄弟は父の作ったルーシ法典に条項を加え、草原の遊牧民とも戦った。一〇五五年にはペチェネグ人を草原から追い払ったトルク人への遠征を行う一方、同年に現れたクマン人とは和平を結んだ。一〇六〇年にはイジャスラフや遠縁のフセスラフを説いてトルク人を攻めた。しかし一〇六一年、クマン人が自領へ侵入すると戦いに敗れた。

一〇六七年に最初の妃が死去したのち、アンナと再婚した。二番目の妃はクマン人の公女とも、ポロツク公家の出身ともいわれる。二人の間には息子ロスチスラフと、のちに修道女となる娘や皇帝ハインリヒ四世に嫁ぐエウプラキヤらが生まれた。一〇六八年、再び侵入したクマン人に対して三兄弟は共同で出兵したが、アルタ川で敗北した。フセヴォロドはペレヤスラヴリへ退き、キエフでは反乱でイジャスラフが追われ、フセスラフが大公となった。一〇七二年には三兄弟がそろい、叔父ボリスとグレブの聖遺物を移す儀式を行った。しかし翌年、フセヴォロドはスヴャトスラフを支持してイジャスラフをキエフから追放した。これに対して洞窟修道院長フェオドシイはイジャスラフへの忠誠を保ち、二人との食事を拒んだ。

一〇七六年末にスヴャトスラフが死去すると、フセヴォロドは短期間キエフの大公位に就いたが、翌年には復帰したイジャスラフと和解してその座を譲った。自らはチェルニーゴフへ移ったものの、スヴャトスラフの息子たちは同地を父からの世襲領と考えた。甥オレーグはクマン人と同盟して攻め込み、フセヴォロドはイジャスラフの援助を得て戦った。一〇七八年の戦いでイジャスラフが死去したため、再びキエフ大公となった。これによりキエフ、チェルニーゴフ、ペレヤスラヴリの三つの中核公領をまとめ、チェルニーゴフの統治は長男ウラジーミルに任せた。

フセヴォロドは五つの外国語を理解し、ギリシャ語で詩を作ることもできたとされる。だが軍事では敗北が多く、戦いの多くは息子ウラジーミルが担った。晩年は古くからの家臣より若い助言者を重用し、裁判の腐敗が進んだとも伝えられる。重い病にかかると、実際の政務もウラジーミルが執った。一〇九三年四月十三日に死去し、大公としての在位を終えた。

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