伝記
ナジムッディーン・アイユーブは、ザンギー朝に仕えたクルド系の軍人、政治家である。息子のサラーフッディーン(サラディン)がエジプトに建てた王朝は、アイユーブ朝と呼ばれる。その名は、王家の始祖である彼の名にちなむ。ナジムッディーンは「信仰の星」を意味する。生年はわからない。アルメニアのドゥヴィン近くのアジュダナカーン村で、シャーディー・イブン・マルワーンの子として生まれた。クルド人のハダバーニー族の支族ラワーディーヤ族の出身で、一族はシャッダード朝と深い関係にあった。1130年にシャッダード朝がドゥヴィンを失うと、シャーディーはアイユーブと弟シール・クーフを連れてバグダード、ついでティクリートへ移った。シャーディーはセルジューク朝に仕えるバグダードの軍事長官ビフルーズに知られてティクリートの統治を命じられ、その死後はアイユーブがこの地位を継いだ。
1131年(1132年ともされる)、セルジューク朝との争いに敗れたイマードゥッディーン・ザンギーが、本拠のモスルへ帰るためティクリートを通ろうとした。川のそばで囲まれた彼を、アイユーブは川の向こうへ渡して逃がしたが、ビフルーズに叱責された。1137年か1138年に、シール・クーフが怒りに駆られてキリスト教徒の役人を殺す事件が起き、セルジューク朝のスルターンの罰を恐れたビフルーズは、アイユーブたちにティクリートからの立ち退きを命じた。その日にアイユーブには子が生まれ、ユースフと名づけられた。のちのサラディンである。一家はモスルのザンギーのもとへ落ちのび、ザンギーはこれを歓迎して、アイユーブとシール・クーフを軍団の司令官に任じた。1139年にザンギーがシリア北方のバールベックを得ると、アイユーブにその町の統治を任せた。
1146年にザンギーが暗殺されると、バールベックはダマスカスの摂政ムイーヌッディーン・ウヌルに包囲された。アイユーブは交渉して町を明け渡し、代わりに金銭とダマスカス近くの村々を得て、家族とともにダマスカスへ移った。ウヌルを破って引き返させたとする記述もある。シール・クーフは兄と別に、アレッポのザンギーの子ヌールッディーン・マフムードに仕えた。1148年に第2回十字軍がダマスカスを囲むと、ムイーヌッディーンはヌールッディーンと同盟を結んだ。アイユーブはヌールッディーンに仕える弟と連絡を取り合い、1154年のヌールッディーンによるダマスカスの無血開城に大きな役割を果たした。功績は高く評価され、アイユーブはイクターを授けられてダマスカスに残り、ヌールッディーンの前で座ることも許された。
息子のサラディンもヌールッディーンに仕え、シール・クーフとともにエジプトへ派遣された。1170年2月、アイユーブもカイロへ赴き、助言者としてサラディンのエジプト支配を支えた。サラディンがファーティマ朝の宰相となったのち、ヌールッディーンとの仲は悪くなり、アイユーブは二人の仲立ちの役を務めた。1172年、両者の関係が決裂に近づいたとき、アイユーブは怒って、ヌールッディーンへの服従を求めた。一方、息子と二人だけのときは、野心をあらわにせず時を待つよう勧めたという。アイユーブは1173年7月31日の落馬で重いけがを負い、8月9日に死んだ。歴史家バハーウッディーンは、彼を「気高く、寛大で、穏やかで、すぐれた性格の人」と述べ、ポロを好んだという。
同じ年に亡くなった人物
- エヴフロシニヤ・ポロツカヤ (1173年没)
- Nerses IV the Gracious (1173年)
- ラインバウト・ダウレンガ (1173年没)
- マチュー・ダルザス (1173年没)
- トゥデラのベンヤミン (1173年没)