伝記
シャーワルは、エジプトを支配したファーティマ朝の宰相で、1162年から1163年までと、1164年から1169年まで務めた。生年は不詳である。1121年に宰相アル・アフダルが暗殺されてから、エジプトは宰相の座をめぐる権力争いと内戦が続き、1162年までに7人の宰相が入れ替わり、そのうち6人が殺されていた。上エジプトの総督だったシャーワルは、宰相アーディル・ルッズィークを倒して殺し、宰相と軍の長を名乗った。しかし、一族の者を要職に据え、その貪欲さのために、自身の将校たちにさえ人気を失った。大侍従に取り立てたディルガームは、1163年に反乱を起こした。シャーワルはかろうじて逃れ、ヌールッディーンの宮廷に身を寄せた。
シャーワルは、ヌールッディーンに、宰相への復帰を助けてほしいと頼んだ。ヌールッディーンは、エジプトの厄介な事情に関わることに気が進まなかったが、エルサレム王アマルリックがエジプトに侵入してビルバイスを包囲していると知り、王がナイル川の流域に居座るのを望まず、シャーワルが戦費の補償と貢納を約束したことから、1164年に家臣シール・クーフの率いる軍を送った。ディルガームは防衛をととのえられないまま、逃げる途中で殺された。宰相に復帰したシャーワルは、約束した補償を払わないまま、シール・クーフに即時の退去を求めた。シール・クーフは、金を受け取るまで去らないと答えた。シャーワルは自軍を信用できず、アマルリックに助けを求めた。シール・クーフはビルバイスに立てこもり、連合軍に包囲された。シャーワルは、どちらかが敗れれば他方の言いなりになることを恐れ、攻撃を遅らせて時間をかせいだ。ヌールッディーンがアンティオキア公国に侵入してボエモン3世を破って捕らえたため、アマルリックは急ぎ帰り、シール・クーフと和を結んで、両軍はエジプトから同時に退いた。
その後の3年間、シール・クーフは、ヌールッディーンに、シャーワルへの復讐の許しと手段を求め続けた。シャーワルは、身の危険を感じて、アマルリックと相互援助の条約を結んだ。これを知ったヌールッディーンが許可し、騎兵2千がダマスクスを出た。シール・クーフはバーバインの戦いに勝ち、アレクサンドリアを取ったが、アマルリックとの和でまた両軍が同時に退き、アマルリックは、エジプトに保護国の地位と、貢納を取り立てる小部隊を残した。フランク人がカイロにいることは住民を怒らせ、アマルリックがビザンツと協力してエジプト征服の相談をしていると知ったシャーワルは、ヌールッディーンに近づいた。男爵たちに裏切りを責められたアマルリックは、エジプトに侵攻した。フランク人がフスタートに着くと、住民が十字軍に渡すより火にかけることを選んだため、町は焼かれており、アマルリックは、シール・クーフが着く少し前に退いた。エルサレム軍はエジプトで略奪も働き、それを招いたシャーワルにも非難が集まった。1169年にシール・クーフがカイロに入ると、シャーワルはカリフのアーディドや民衆の支持を失って宰相の座を追われた。そして、シール・クーフの命を受けたサラディンに捕らえられ、処刑された。シール・クーフが宰相となったが、まもなく亡くなり、国は甥のサラディンに遺された。
同じ年に亡くなった人物
- シール・クーフ (1169年没)
- Bertrand de Blanchefort (1169年)
- トロス2世 (1169年没)
- ガルナーティー (1169年没)
同じ地域に関係する人物
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- アフマド・イブン・アラブシャー (1450年没)
- オギュスト・マリエット (1881年没)
- アーディド (1171年没)
- Layla Mourad (1995年没)