伝記
マティルダは、1102年2月7日に生まれ、1167年9月10日に没したイングランドの王族である。ノルマン朝のイングランド王ヘンリー1世と、スコットランド王マルカム3世の娘である王妃マティルダの間に生まれた王女で、弟に王子ウィリアム・アデリンがおり、のちにプランタジネット朝の始祖となるヘンリー2世の母にあたる。マティルダ皇后、モード皇后などとも呼ばれる。生まれた時の名はアデレードだったが、1114年に12歳で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚して皇后となった際、母の名を取ってマティルダ(モード)と改めたという。
1120年、後継者と目された弟がホワイトシップの遭難で亡くなり、彼女の境遇は一変した。1125年に夫が没するとイングランドへ帰され、翌1126年には弟に代わる父の後継者として貴族に認められた。1127年にも貴族の誓約が交わされ、その中には後に王位を争うことになる従兄のエティエンヌ(のちのスティーブン王)、母方の叔父のスコットランド王デイヴィッド1世、異母兄のグロスター伯ロバートもいた。1128年には、父と対立していたアンジュー伯フルク5世との和睦のため、その息子で10歳年少のジョフロワ5世と再婚した。マティルダはこの結婚に不満で、元皇后としての自負から夫を見下し、夫婦仲は悪かったとされる。それでも1133年には長男アンリを産み、ヘンリー1世は孫の誕生を喜び、貴族にアンリへの臣従を誓わせた。
1135年に父が没すると、マティルダがアンジューに留まっている隙に、エティエンヌがロンドンに入ってスティーブン王となった。マティルダは誓約違反をローマ教皇庁に訴えたが、スティーブンが教会と友好的だったこともあり退けられた。1139年、諸侯の統制を失いつつあるスティーブンを見て、彼女はイングランドに上陸して王位を争い始め、以後は無政府時代と呼ばれる内乱となった。1141年2月、グロスター伯らの軍が第一次リンカーンの戦いでスティーブンを破って捕虜にし、彼女はイングランド人の女君主を名乗ってロンドンへ向かった。ところが、戴冠を前にロンドン市が求めた減税の陳情をにべもなく退けたため、市民は城門を閉ざして入城を拒んだ。同年9月には王妃マティルダ・オブ・ブロインの反撃でグロスター伯が捕らえられ、捕虜交換でスティーブンが解放されて内戦が再開し、戴冠の機会は失われた。実権を握ったのは1141年の数か月に限られ、戴冠もしなかったため、歴代の国王には数えないのが通例である。
1147年にグロスター伯が没すると支えを失い、翌1148年2月にはフランスのルーアンへ戻った。1151年には夫も亡くなった。だが、成長した長男アンリがノルマンディー公位とアンジュー伯位を得、さらに妻アリエノール・ダキテーヌを通じてアキテーヌなどを手にして勢力を広げ、1153年1月にイングランドへ上陸した。同年、スティーブンの生涯の王位を認める代わりに、アンリを継承者とする協定が結ばれ、1154年にスティーブンが没するとアンリがヘンリー2世として即位した。マティルダはフランスからこれを見届け、1167年に世を去った。
ルーアンに退いた後も、息子に統治の心得や人心掌握の術を教え、トマス・ベケットのカンタベリー大司教任命に反対するなど、助言を続けたという。アリエノールにも影響を与えたとされる。傲慢で気性が激しく、ドイツ育ちでイングランドに馴染みが薄かったことから諸侯の支持を得られなかったと評され、イングランドでは女王が忌避され、1553年にメアリー1世が即位するまで女王は現れなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ロスチスラフ1世 (1167年没)
- エイルレッド・オブ・リーヴォール (1167年(推定))
- ライナルト・フォン・ダッセル (1167年)
- ヴェルフ7世 (1167年)
- フリードリヒ4世 (シュヴァーベン大公) (1167年没)
同じ地域に関係する人物
- アーニー・パーカー (1918年没)
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1374-1441) (1441年没)
- フィリップ1世 (ナミュール侯) (1212年没)
- アルヌール3世 (フランドル伯) (1071年没)
- ルイ2世 (フランドル伯) (1384年没)