伝記
ルイ2世は、1330年10月25日に、ブルッヘから2キロメートルほどのマールの城館で生まれたフランドル伯である。父はフランドル伯ルイ1世、母はフランス王フィリップ5世の次女マルグリットで、生まれた地にちなんでルイ・ド・マールとも呼ばれる。幼いころにブラバント公の娘マルグリットとの縁組を定められたが、これは公と父の和解を固めるためだった。1346年、百年戦争のクレシーの戦いで、傷を負いながらも生き残り、父の戦死を目の当たりにした。その日のうちに、フランス王フィリップ6世から騎士に叙された。
父の死でフランドル伯を継ぎ、11月には領地に入った。しかしゲントの市民は、毛織物の組合に支配されており、羊毛の供給を保つためにイングランドとの結婚を伯に押しつけようとした。ルイは礼儀正しい見張りのもとにとどめられたが、鷹狩りに出かけた隙に逃げ出し、フランス、ついでブラバントへ逃れて、1347年にブラバント公の娘マルグリットと結婚した。ゲントは直ちに反乱を起こした。反乱は1348年の黒死病の流行もあって弱まり、伯はイングランド王と中立の条約を結び、小さな町々に支えられて勢いを取り戻した。反乱を起こした都市の鎮圧は、1348年12月までに終わった。ルイは親フランスだった父とは異なり、イングランドへ近づきつつ領土の拡大を狙い、フランスとイングランドのあいだで揺れ動く政策をとって、フランドルの中立と安定した繁栄を保とうとした。1350年には、新しいフランス王への臣従の誓いを拒んで人気を得た。
1355年に妻の父ブラバント公ジャン3世が亡くなると、妻の姉ジャンヌの夫であるルクセンブルク公ヴェンツェル1世に戦争を仕掛け、メヘレンとアントウェルペンを手に入れた。しかしフランスからの干渉を受けるようになり、1357年にはフランス王ジャン2世に押し切られ、1人娘で相続人のマルグリットをブルゴーニュ公フィリップ1世と結婚させた。1361年にフィリップ1世が亡くなると、マルグリットは未亡人になった。ルイはイングランドとの政略結婚をもくろみ、1363年に、マルグリットをイングランド王エドワード3世の息子エドマンド・オブ・ラングリーと再婚させようとしたが、フランス王シャルル5世が教皇ウルバヌス5世に求めて婚姻の無効を宣言させ、縁談は成立しなかった。シャルル5世は弟でブルゴーニュ公のフィリップ豪胆公とマルグリットを結婚させようと図った。ルイは初め反対したが、母に説得されたことや、シャルル5世がリール、ドゥエー、オルシーを割譲したことで承諾し、1369年にマルグリットと豪胆公を結婚させた。
1375年、レイエ川の運河の開削をめぐってゲントで反乱が起こり、イーペルとブルッヘも応じて広がったが、ルイはこれを鎮めた。だが頑強に抵抗するゲントが、1382年にヤコブ・ヴァン・アルテベルデの息子フィリップ・ヴァン・アルテベルデを擁立してフランドル軍を破ると、反乱軍は息を吹き返し、ルイはリールへ逃げて、婿の豪胆公に助けを求めた。豪胆公は、甥のフランス王シャルル6世の援助を受けてすぐに出兵し、ローゼベーケの戦いでアルテベルデを討ち取って反乱を鎮圧した。2年後の1384年1月30日、ルイは53歳で亡くなり、遺領は豪胆公とマルグリットの夫妻が相続した。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ1世・ダンジュー (1384年没)
- リュバルタス (1384年没)
- マグヌス1世 (メクレンブルク公) (1384年没)
- トマ・プレリュボヴィチ (1384年没)
- ディミトリオス・カンダクジノス (1384年没)
同じ地域に関係する人物
- ギュスターヴ・サンドラス (1951年没)
- Auguste Serrurier (1924年没)
- Georges Beaucourt (2002年没)
- Charles Pacome (1978年没)
- エルマントルド・ドルレアン (869年没)