伝記
フリードリヒ4世は、1144年か1145年に生まれたシュヴァーベン大公である。ローマ王コンラート3世と、ゲルトルート・フォン・ズルツバッハの息子で、ローテンブルク付近に領地があったことから、自らを「ローテンブルク公」と名のり、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクとも呼ばれる。シュヴァーベン大公としては4世と数える。
1152年に父コンラート3世が死んだとき、フリードリヒはまだ幼かった。コンラートは死の床で、居合わせたバンベルク司教と甥のフリードリヒ(のちのバルバロッサ)の二人だけを前に、息子ではなく甥を後継者に選び、帝国の印を渡したと伝えられる。この従兄弟フリードリヒ1世は、国王選挙の投票者と交渉して、支配を確かなものにし、ローマ王に選ばれた。国王になったフリードリヒ1世は、幼い従弟を代わりにシュヴァーベン大公に任じ、フリードリヒ4世は公領を支配した。1157年には騎士とされ、フリードリヒ1世のイタリア遠征に加わった。
1165年、フリードリヒ4世は、チュービンゲン宮中伯とヴェルフ家との私闘で、宮中伯を支援した。その結果、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立は激しくなった。1166年、フリードリヒ1世はウルムの帝国議会で、この争いを収めることができた。それは、フリードリヒ4世と、ヴェルフ家のザクセン公・バイエルン公ハインリヒ獅子公の12歳の娘ゲルトルートとの結婚によって実現した。
1167年、フリードリヒ4世は、フリードリヒ1世に率いられた帝国軍とともにイタリアに入った。ところが同年8月、帝国軍の大部分が、おそらく赤痢とみられる伝染性の病気にかかった。フリードリヒ4世も病にたおれ、1167年8月19日、ローマの占領後に死んだ。自分でシェーフタースハイムに創った修道院には葬られず、エーブラハのシトー会修道院に葬られた。墓は1650年から、修道院教会の聖歌隊席の祭壇の裏、南の壁のくぼみにあり、左側には母ゲルトルートの墓がある。フリードリヒ4世の墓像は17世紀のもの、母の墓像は16世紀初めのものとされる。幼いゲルトルートとの短い結婚では子が生まれなかった。フリードリヒ4世はコンラート3世の最後の生き残りの息子で、その死によってコンラート3世の系統は絶え、所領はフリードリヒ1世のものとなった。皇帝は、わずか3歳の長男フリードリヒ5世をシュヴァーベン大公に任じた。未亡人ゲルトルートは1177年に、のちのデンマーク王クヌーズ6世と再婚し、1197年7月1日に死んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ2世 (リンブルフ公) (1167年没)
- マティルダ (神聖ローマ皇后) (1167年没)
- エイルレッド・オブ・リーヴォール (1167年(推定))
- ロスチスラフ1世 (1167年没)
- ライナルト・フォン・ダッセル (1167年)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前232年の執政官) (紀元前216年没)
- フェリーチェ・デッラ・ローヴェレ (1536年没)
- アメデオ・アマデイ (2013年没)
- バーナード・ウィリアムズ (哲学者) (2003年没)
- マリー=ジョセフィン・ゴーディト (2017年没)