HISTORICAL PERSON · 710年没

上官婉児

唐代の詩人。一族の誅殺で婢の身分に落ちたが、詩才で則天武后に愛され、中宗の時に昭容となった。修文館の詩会で宮廷に詩を流行させ、韋皇后のクーデターが失敗した際に誅殺された。

生涯
710年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(陝州区)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

上官婉児は、664年に生まれ710年に没した、唐代の詩人であり政治家である。上官昭容とも呼ばれる。陝州陝県の出身で、本貫は隴西郡上邽県。祖父は上官儀、父は上官庭芝である。則天武后に仕え、「女宰相」とも評された。祖父の上官儀は高宗の初期に有力な官僚となり、662年には宰相に至っていた。664年、高宗は第二の妻である武后が政治に強い影響を及ぼし、皇帝の決定を無視するほどになったことに怒り、上官儀に相談した。上官儀は武后の廃位を勧めたが、これを武后が知ると高宗は考えを改め、かえって上官儀を責めた。武后の意を受けた宰相の許敬宗は、上官儀が、かつて仕えた高宗の子の李忠や宦官の王伏勝と高宗に対して謀反を図ったと誣告した。李忠は自殺に追い込まれ、王伏勝、上官儀、そして婉児の父の上官庭芝は、665年1月3日に処刑された。この誅殺で一族の大半が処刑され、のちに武后は実質的に夫に代わって政治を行うようになった。

婉児と、官僚鄭休遠の姉にあたる母の鄭氏は命を助けられたが、宮中の奴婢の身分に落とされた。成長した婉児は広く書物を読み、幼いころから散文や詩に才能を示し、官の規則にも通じていた。武后は13歳の婉児が書いた詩を目にして彼女を召し出し、与えた題でその場で文章を作らせた。見事な出来に感心した武后は、婉児を自分の秘書に取り立てたという。婉児は詔勅の半分を書き、官僚たちの上奏や請願の多くを受け付ける仕事も担った。

高宗の死後の683年、武后は皇太后となり、二人の息子の中宗と睿宗を相次いで廃した。690年には自ら皇帝を称して唐を廃し、周を建てた。万歳通天年間(696年から697年)以降、婉児は詔勅の起草を担当し、その文章はきわめて美しいと評された。あるとき武后の命令に背いて死罪になるところを、武后がその才能を惜しんで助け、顔に入れ墨を施すにとどめたこともある。以後、武后は官僚の上奏や国家の重要事について彼女に相談するのが常だったという。

705年、張柬之らのクーデターで武后が退けられ、中宗が復位した。このとき婉児は中宗の後宮に入って婕妤となり、のちに昭容(正二品)の位を与えられた。中宗は引き続き詔勅の起草を任せた。中宗は修文館を建て、公卿の文学者20名を選んで宴や詩会を開き、婉児は先生格として男子たちを導いた。群臣は競って詩を作り、添削を請い、宮廷では詩が流行したという。一方で婉児は、武后の甥の武三思と関係を持ち、彼を中宗と韋皇后に推薦して重用させた。さらに韋皇后に武后の故事を吹き込み、皇帝に代わって権力の座につくよう勧めた。韋皇后は民の感謝を得ようと、父に離縁された母のための三年の服喪を民に義務づけることや、軍役・労役の対象となる成年男子の年齢を20歳から59歳までから22歳から58歳までに改めることを中宗に上奏し、中宗はこれを認めた。710年に韋皇后のクーデターが失敗に終わると、婉児は李隆基(後の玄宗)の目の前に引き出されて誅殺された。

没後の開元年間には、『詔張説題篇』20巻が出版された。代表作に『綵書怨』がある。2013年、西安空港の建設中に見つかった墓の墓誌には、彼女がたびたび中宗を諫めたと記されていた。墓から出た俑からは、政務にあたる際には男装していたことがわかる。単独で埋葬されていたことから、後宮の女性ではなく高級官僚として扱われていたことがうかがえる。

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