HISTORICAL PERSON · 紀元前195年没

劉邦

前漢の初代皇帝。農家の出身で沛県の亭長から陳勝・呉広の乱に呼応して挙兵し、紀元前207年に咸陽へ入って秦を滅ぼした。楚漢戦争で垓下の戦いに勝って項羽を自決に追い込み、天下を統一した。

生涯
紀元前195年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(沛県)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

劉邦は前漢の初代皇帝である。生年は紀元前256年とも紀元前247年ともされ、没したのは紀元前195年6月1日。字は季、廟号は太祖、諡号は高皇帝だが、通常は高祖と呼ばれることが多い。戦国時代末期に楚の領域だった沛県豊邑(現在の江蘇省徐州市豊県)に、父の劉太公と母の劉媼の子として生まれた。『史記』は、父が母の上に竜が乗る姿を見た後に生まれたと伝える。幼馴染に盧綰と樊噲がおり、二人は後の反秦活動にも加わった。庶民出身の王朝創始者として明の朱元璋と並ぶが、朱元璋ほどの極貧ではなかったとされる。中年期までろくな定職に就かず、まともな読み書きも身につけなかったが、遊び人なりに多くの人に好かれたことが、蜂起後の大きな財産になった。

若い頃は親分肌の俠客で、家業を嫌い酒色を好んだ。やがて泗水の亭長に就いたが任務に忠実な役人ではなく、同じ沛の役人だった蕭何と曹参も、この頃は劉邦を高くは評価していなかったようである。それでも人望はあり、飲み屋に入れば人が集まって満席になるので、店は勘定の踏み倒しを黙認したと伝えられる。『史記』によれば、夫役で咸陽へ行った際に始皇帝の行列を見て、「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と語った。また、沛へ来た有力者呂公の歓迎宴で、劉邦は進物を「銭一万銭」と告げて上席に着いた。蕭何は劉邦が銭など持たないと知っていたが、呂公は人相を見込んで娘を嫁がせた。これが呂雉であり、二人の子が後の恵帝と魯元公主である。

亭長として人夫を引き連れ咸陽へ向かう途中、秦の過酷な労働と刑罰を知る人夫たちが次々に逃亡した。やけになった劉邦は、酒を飲んだうえで残りの人夫も逃がし、行くあてのない者たちと沼沢に隠れた。噂を聞いて集まる者があり、小さな勢力の頭となった。紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こると、蕭何と曹参の勧めで沛の人々は県令を殺して劉邦を迎え、劉邦は以後、沛公と呼ばれた。この頃に出会った張良は、劉邦が熱心に自分の言葉を聞くのに感激し、「沛公はほとんど天性の英傑だ」と称えた。以後、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、劉邦もその言葉をほぼ無条件に聞き入れたという。劉邦は項梁の下に入り、その戦死後、楚の懐王は項羽らの主力を趙へ送り、劉邦を別働隊として西回りに咸陽へ向かわせ、「一番先に関中に入った者を、その地の王としよう」と約束した。

西へ進んだ劉邦は、儒者の酈食其の進言を聞いて陳留を降し、大量の兵糧を無血で手に入れた。張良の策で武関の守将をだまし討ちにして突破し、藍田では旗を多く掲げて兵数を多く見せ、掠奪を禁じたので、秦の民衆は喜んだ。覇上に迫ると、秦王子嬰が玉璽を差し出して降伏した。部下は殺すよう求めたが、劉邦は降伏した者に手を掛けるのは不吉だとして官吏に落とすのみで許し、紀元前207年に咸陽に入城して秦を滅ぼした。

その後、鴻門の会を経て、項羽によって漢王に封じられ、巴蜀と漢中一帯を支配した。紀元前206年に項羽と敵対して楚漢戦争が始まると、人材を見抜いて登用し、配下の才能を十分に発揮させるとともに、項羽に対立する勢力を積極的に糾合した。最終的に垓下の戦いで項羽を自決に追い込み、天下を統一して漢を建て、紀元前202年2月28日に皇帝に即位した。毛沢東は劉邦を「封建皇帝の中で最も優れた人物」と評している。

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