HISTORICAL PERSON · 805年没

徳宗 (唐)

唐の第12代皇帝。両税法を施行し財政再建を図ったが、節度使抑制策が反発を招き長安を追われる事態を招いた。

生涯
805年没
死亡地
斉 (黄巣)(陝西省 / 長安)
出生地
金(長安)
出典
世界地図
斉 (黄巣)(陝西省)

伝記

徳宗は、唐朝の第12代皇帝である。代宗の長男で、個人名は李适。742年に生まれ、805年に世を去った。在位は26年に及び、唐代では3番目に長い治世だった。財政の立て直しに取り組み、強大化した節度使を抑えようとしたが、その試みは大規模な反乱を招き、唐を危うくした。

742年、玄宗の時代に長安の東宮で生まれた。父は広平王で、母はその妃嬪の沈氏である。同じ年のうちに奉節郡王に封じられた。755年に安史の乱が起こると祖父の粛宗や父は霊武へ逃れたが、母の沈氏は反乱軍に捕らえられた。徳宗が当時どこにいたかは記録にないものの、父に従っていたと考えられている。756年に長安が奪回されて父が皇太子となり、762年に代宗が即位すると、徳宗は天下兵馬元帥に任じられ、雍王に改封された。諸軍を陝州に集めて史朝義を討つ準備を進めたが、同盟した回紇の可汗に対等の態度で接したため怒りを買い、側近の何人かが捕らえられて激しく鞭打たれ、うち2人がその夜に死んだ。この出来事で、徳宗は後々まで回紇に強い恨みを抱いたとされる。それでも洛陽を奪回して河南・河北を平定し、史朝義が逃走の途中で自殺した763年に安史の乱は終わった。徳宗は尚書令を与えられ、その肖像は郭子儀ら8人の将軍とともに凌煙閣に加えられた。

763年に吐蕃が長安を一時占領した際には、関中の諸軍の名目上の総帥とされたが、実際に指揮を執ったのは副元帥の郭子儀だった。764年に皇太子に立てられた。765年には、ある尼僧が自分は徳宗の母の沈氏だと名乗り出たが、取り調べで乳母にすぎないと判明し、代宗は鞭打ちで死に至らしめた。778年に代宗が腐敗した宰相の元載を処刑した際には、元載の腐敗を明るみに出したのは徳宗だったと側近に語っている。779年に代宗が病に倒れると一時摂政を務め、代宗の崩御により皇帝に即位した。即位から1年足らずのうちに、父の時代とは違う方針を次々に打ち出している。権勢が強すぎると疑った宰相の常袞を流罪にして崔祐甫を後任とし、崔の推薦で楊炎も宰相にした。軍の大きな権限を持っていた郭子儀は多くの名誉の称号とともに事実上引退させられ、その軍権は分割された。宮中の禽獣を放ち、多くの宮女を外に出し、宦官の使者が贈り物を受け取ることも禁じた。倹約と勤勉を旨とする君主として出発したのである。さらに楊炎の進言に従って両税法を施行し、税制の改革に着手した。また節度使の勢力を抑えるため、兵力の削減や世襲の禁止といった抜本的な改革を試みた。

しかしこの改革は節度使の強い反発を招き、河朔三鎮や河南二鎮の反乱を引き起こして、徳宗は長安を追われる事態となった。窮地に陥った徳宗は784年(興元元年)に『罪己詔』を発し、節度使への不介入を約束して混乱を収めようとした。反乱の鎮圧後には、民が戦乱に巻き込まれたのは自分の過ちであると謝罪した。だが改革は短期間で終わり、かえって財政の困難を増し、節度使の権力はさらに強まって、唐の権力は一層弱まった。以後は節度使に対して慎重に臨んだため、藩鎮の割拠に歯止めがかからなくなり、宦官を信頼したことでその権力が大きく伸びたともいわれる。官僚が権力を握ることへの猜疑心も強く、治世の後半には宰相にあまり権限を与えなかったと伝えられる。

805年(貞元21年)に崩御し、長男の李誦が順宗として即位した。治世は両税法の導入などから「中興の治」と称されることがあるが、具体的な成果は乏しいとされる。一方で、のちに憲宗が節度使の抑制に成功したのは、徳宗時代の改革の失敗から得た教訓が活かされた結果であるとも指摘されている。

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