伝記
エルマンガルド・ダンジューは、1068年から1072年ごろ(1067年ごろともいう)に生まれ、1146年6月1日に没した、アンジュー伯フルク4世の娘である。イルムガルドとも呼ばれ、母はフルク4世の最初の妻イルドガルド・ド・ボージャンシーである。父は、教会と対立していた実兄ジョフロワ3世に謀反を起こして捕らえ、狭い牢獄に閉じこめて発狂させ、自らアンジュー伯になった人物であった。フルク4世は生涯に5人の女性と結婚したが、彼女は最初の妻の唯一の娘で、長女にあたる。母とは2歳のころに死別した。のちに十分な教育を受け、敬虔で、教会の財産が俗人に奪われることに反対する改革の志を持つ女性になったという。若いころは才色兼備として名高く、「整った美貌、艶やかな金髪、そして素晴らしい話術」をそなえた美女といわれた。
1088年または1089年に、父方の従兄にあたるアキテーヌ公ギヨーム9世と最初の結婚をした。夫は女性関係に多情で、彼女は嫉妬深い妻だったとされる。夫の女性問題によって精神を患った彼女は、夫婦げんかをしては教会にこもり、また城に戻るという行動を取るようになった。子に恵まれないまま、およそ3年後に婚姻は無効とされて離婚した。この結婚の存在そのものを疑う学者もいる。1092年または1093年、父の手配でブルターニュ公アラン4世と再婚した。父はノルマンディー公に対抗するため、この縁組を望んだのである。彼女自身は修道院で尼僧になりたかったため、再婚の直後に教会へこの結婚の無効を訴えたが、結局は退けられた。1096年にアラン4世が第1回十字軍に出発すると、彼女は1101年に夫が帰るまで、公国の統治と子どもたちの教育を務めた。その間、レンヌの塔の一つの上に小さな教会を建てさせ、司教マルボドゥスがこれを聖別した。1100年ごろ、彼女はロベール・ダルブリセルが創設したフォントヴロー修道院にひかれ、尼僧になりたいと手紙で伝えたが、ロベールの返事は思いとどまるよう促すものだった。夫の帰還後には、ジョフロワとアヴォワーズが生まれた。1112年に夫がブルターニュ公位を退き、ルドンのサン・ソヴール修道院に入ると、長男コナン3世が公位を継いだ。
夫が僧籍に入ったことで、彼女がフォントヴロー修道院に隠棲する障害はなくなった。やがて、マルボドゥスから尼僧となる許可の手紙を受け取って修道院に入り、「唯一無二の最も麗しき方」と賛辞を送られた。1114年には、ギヨーム9世が愛人ダンジュルーズを居城に住まわせたために、その後妻フィリッパもこの修道院に隠棲していた。二人は親友になったという。1117年に彼女は故郷のアンジューに戻り、クレルヴォーのベルナルドゥスを崇拝して、ナント近郊にシトー会の修道院を建てることを推し進めたとされる。1118年の秋にフィリッパが亡くなると、彼女はポワティエに急ぎ、ギヨーム9世の破門、自分へのアキテーヌ公妃の称号の返還、居城の愛人の追放を求めた。1119年10月にはランスの教会会議に出席し、教皇カリストゥス2世に自分の主張への支持を求めたが、拒まれた。それでもしばらく要求を訴えて騒ぎ続け、ギヨーム9世を困惑させたという。
晩年は尼僧として余生を過ごしたとされる。1146年6月1日にルドンのサン・ソヴール修道院で死去したとする死亡記録が残り、2人目の夫アラン4世の隣に葬られた。一方、聖地巡礼ののちにパレスチナの聖アンナ修道院で亡くなったとする歴史家もいる。
同じ年に亡くなった人物
- ザンギー (1146年没)
- ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ (1146年没)
- 仁宗 (高麗王) (1146年没)
- サン・ヴィクトールのアダン (1146年没)
- フセヴォロド2世 (1146年没)
同じ地域に関係する人物
- ウジ・ナルキス (1997年没)
- Modestos of Jerusalem (634年没)
- タチアナ・コンスタンチノヴナ (1979年没)
- リア・ヴァン・リー (2015年没)
- Jacob Israel de Haan (1924年没)