伝記
イマードゥッディーン・ザンギーは、1085年に生まれ、1146年9月14日に没した、セルジューク朝のモースルとアレッポの太守(在位1127年 - 1146年)で、ザンギー朝の初代アミールである。父アーク・スンクルはスルタンのマリク・シャーに仕えたテュルク系のマムルークで、アレッポを任されていたが、半独立の動きを見せたため、1094年にダマスクスにシリア・セルジューク朝を立てたトゥトゥシュに殺された。ザンギーは、モースルの領主ケルボガに育てられた。十字軍と組織的、継続的に戦った最初のムスリムの武将とされ、1144年にエデッサ伯国を奪って、第2回十字軍を呼び寄せることになった。
1127年、バスラの司令官だった彼は、アッバース朝カリフのアル・ムスタルシドがイラク・セルジューク朝のスルタン・マフムード2世に対して起こした反乱の際、スルタンに呼ばれてバグダードへ出兵した。マフムード2世を守って戦い、カリフを破って宮殿に幽閉させ、この功績でモースルの太守に任じられた。翌1128年には、モースルに付属するとされたアレッポに入城して支配下に収め、本拠とした。彼はアレッポのかつての王リドワーンの娘で、先のアタベクのイル・ガーズィーとバラクの未亡人だった女性と結婚し、アタベク政権を打ち立てた。ザンギーは十字軍に反攻したイスラム世界の英雄と見られがちだが、実際には生涯の多くを、ダマスクスの地方政権ブーリー朝との争いに費やした。1130年、彼はダマスクスのブーリに連合して十字軍と戦おうと呼びかけたが、到着したブーリの軍を武装解除して人質を取り、ハマーを奪った。1132年にマフムード2世が世を去ると、カリフがまたも勢力を盛り返し、ザンギーは再びバグダードへ向かったが、ティクリートの郊外でカリフ自身の待ち伏せにあって敗れ、捕らえられる寸前に、ティクリートの司令官ナジムッディーン・アイユーブに命を救われた。この人物の息子が、のちのサラーフッディーン(サラディン)である。1133年には、モースルを包囲したカリフに勝利し、カリフは1135年に捕虜となり、惨殺された。
1135年、ザンギーはダマスクスの領主イスマイルから救援を求められたが、ダマスクスの人々は以前の人質事件以来ザンギーを嫌っていた。イスマイルの母ズムッルド妃が息子を殺害させて、もう一人の息子マフムードを擁立し、ザンギーはダマスクスを得られないまま去った。1137年にはエルサレム王フルクの軍を破り、バーリンの要塞を包囲して、明け渡しと大金の支払いを条件に講和した。東ローマ皇帝ヨハネス2世がシリアを攻めると、周辺に支援を呼びかけ、十字軍側と皇帝側を離反させる策をめぐらせ、1138年のシャイザル包囲戦で連合軍は1か月で撤退した。その5月末にはダマスクスでズムッルド妃と協定を結び、のちにホムスで結婚したが、ダマスクスを引き継ぐことはできなかった。1139年にマフムードが暗殺されると、ダマスクスへ向かったが、ウヌルのもとで守りを固めたダマスクスはエルサレム王国と連合し、1140年にザンギーは引き返した。
1144年の秋から、ザンギーはエデッサ伯国に進撃した。12月24日に城壁の下に積んだ材木と油と硫黄に火を放って城壁を崩し、軍が侵入して、26日に街は明け渡された。西洋人への扱いは過酷で、財宝は没収され、残る100人ほどは処刑された。この事件は十字軍国家を震え上がらせ、第2回十字軍を招いた。ムスリム世界は熱狂し、カリフは彼に美辞麗句の敬称を与えた。彼は1146年9月14日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- エーリク3世 (デンマーク王) (1146年没)
- サン・ヴィクトールのアダン (1146年没)
- ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ (1146年没)
- 仁宗 (高麗王) (1146年没)
- Helena, Queen of Hungary (1146年没)
同じ地域に関係する人物
- ジハーディ・ジョン (2015年没)
- ジェームズ・フォーリー (ジャーナリスト) (2014年没)
- ヒシャーム (ウマイヤ朝) (743年没)
- Uwais Qarni (657年没)