伝記
アレグザンダー1世は、1078年、スコットランド王マルカム3世と王妃マーガレットの子として生まれた。兄弟の中では四男とも五男ともいわれ、名は教皇アレクサンデル2世にちなんで付けられた。母はイングランド王家につながるエドガー・アシリングの姉妹であった。アレグザンダーはフォース川以北やロージアンに土地を持ち、1104年までには未婚の兄エドガー王の推定相続人となっていた。同年、ダラムで聖カスバートの遺骨を改葬に先立って調べた際には、立ち会った俗人の中で最も高い地位にあった。
1107年、兄が没すると王位を継いだ。ただしエドガーの遺志に従い、弟デイヴィッドには南部の旧ストラスクライド、あるいはカンブリアに当たる地域が与えられた。自らが直接治める中心は中部と北部となり、他の地域は領主に委ねた。デイヴィッドは王ではなくカンブリア人の公とされ、その所領も最終的にはアレグザンダーの権威の下にあった。また同年、母の礼拝堂付き司祭であったトゥルゴがセント・アンドリューズ司教に任命された。教会ではイングランドとの結びつきを強める一方、ヨーク大司教の管轄から離れることを教皇に求めた。司教を自ら招こうとしたが、その意向が常に受け入れられたわけではなかった。
1107年から1114年の間に、イングランド王ヘンリー1世の庶子シビラと結婚した。姉妹マティルダがすでにヘンリーの妃であったため、アレグザンダーはイングランド王の義兄であると同時に娘婿ともなった。1113年、デイヴィッドはイングランド系の支持者の後援を受け、トゥイード川上流とテヴィオット方面の土地を追加で要求し、これを得た。この問題が兄弟関係を長く損なった様子はなく、ヘンリーとの関係も続いた。1114年にはヘンリーとともにウェールズへ遠征し、グウィネズのグリフィズ・アプ・カナンと戦った。1115年頃には北部のマリやマーンズの反乱を厳しく討伐し、攻撃者をロス方面まで追って破ったとされる。その激しさによって「獰猛王」と呼ばれた。
信仰の面ではスクーンに宗教施設を設け、母が葬られたダンファームリン修道院の大きな西側入口には、両脇の塔を建てた。セント・アンドリューズにも土地を与え、アウグスティヌス会の修道院のために用いようとした。司教の後任候補エアドメルには、ヨークのサースタンではなく、カンタベリー大司教ラルフ・デスキュールが後援を与えていた。妃シビラとは親しい夫婦であったとされるが、子は生まれなかった。1122年7月、シビラがテイ湖の島で没すると、ダンファームリン修道院に葬った。アレグザンダーは再婚せず、妃を記念する修道院の創設を計画したとされる。
1123年、フォース湾へ船で出た際に嵐に遭い、島で救助された。生還に感謝してインチコルムにも宗教施設を創建した。しかし遭難で溺れかけて衰弱したことが死につながったともいわれ、1124年4月23日、スターリングの宮廷で没した。王位は弟デイヴィッドが継いだ。シビラとの間には子を残さなかったが、庶子マルカムがいた。マルカムは後にデイヴィッド1世に対する反乱に関わり、ロクスバラで長く幽閉された。
同じ年に亡くなった人物
- カリストゥス2世 (ローマ教皇) (1124年没)
- ケレスティヌス2世 (対立教皇) (1124年没)
- ノジャンのギベール (1124年)
- ヴィプレヒト2世 (グロイチュ伯) (1124年没)
- ボジヴォイ2世 (1124年)
同じ地域に関係する人物
- マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯) (1571年没)
- ロバート・ステュアート (オールバニ公) (1420年没)
- ジョージ・イネス (1894年没)
- マーガレット・オブ・デンマーク (1486年没)
- ジェームズ・アバークロンビー (将軍) (1781年没)