伝記
カリストゥス2世は、十二世紀初めに叙任権闘争の決着をはかったローマ教皇である。ブルゴーニュ伯ギヨーム1世の子として生まれ、元の名をギー・ド・ヴィエンヌという。四男とされ、兄にはブルゴーニュ伯位を継いだルノー2世やエティエンヌ1世、ガリシア伯となったレーモンがいた。レーモンはカスティーリャ女王ウラカの夫で、のちの国王アルフォンソ7世の父にあたる。姉の娘アデルはフランス王ルイ6世の妃となり、一族はヨーロッパの諸侯と広く結びついていた。生年については一〇五〇年、一〇六〇年ごろ、一〇六五年または一〇六八年などと説が分かれ、確定していない。
ギーは一〇八八年にヴィエンヌ大司教となり、その後は教皇パスカリス2世から、フランスにおける教皇特使に任じられたと伝えられる。帝国と教皇権のあいだで揺れる土地の聖職者として、早くから両者の争いの中に身を置いた。一一一二年のラテラン教会会議に関わる暴力反対の動きにも影響を及ぼしたとされる。一方、ハインリヒ5世とゲラシウス2世が対立すると、ゲラシウス2世は皇帝に迫られてローマを離れ、フランスへ逃れ、やがてクリュニー修道院で世を去った。その後継を決める選挙が一一一九年二月二日にクリュニーで行われ、枢機卿ではなかったヴィエンヌ大司教ギーが、九人の枢機卿の参加のもとで教皇に選ばれた。
即位した年の十月、カリストゥス2世はランスで教会会議を開いた。フランス王ルイ6世が国内の貴族の多くを従えて出席し、四百人以上の司教や修道院長が集まったという。ムッソン城での会談に臨んだハインリヒ5世は、予想に反して三万人以上の軍勢を連れて現れた。教皇は、軍にものを言わせた不利な譲歩を迫られることを恐れてランスにとどまり、会談は実を結ばなかった。この会議では聖職売買や聖職者の内縁関係を戒める規則が定められ、十月三十日には皇帝と対立教皇グレゴリウス8世の破門が確認された。教皇はまた、イングランド王ヘンリー1世とノルマンディー公ロベール2世の兄弟の和解を試みたが、これは徒労に終わったとされる。
一一二〇年ごろ、教皇は勅書を出してユダヤ人の扱いについての教皇庁の立場を示した。第1回十字軍のさいにヨーロッパで五千人以上のユダヤ人が殺されたことを受けたもので、財産を奪うことを禁じ、祝祭の自由を認めるなど、ユダヤ人を守る内容であった。教皇グレゴリウス1世や、のちのアレクサンデル3世らの立場にも通じるものとされる。
皇帝の側もドイツでの権威の低下に終止符を打つことを望み、交渉は動き出した。教皇は三つの枢機卿使節をドイツへ送り、一一二一年十月にヴュルツブルクで和解に向けた話し合いが始まった。のちに教皇となるホノリウス2世も助手として派遣され、一一二二年九月二十三日にヴォルムス協約が結ばれた。この結果、司教の選出に対する皇帝の影響力は保たれることになった。翌一一二三年三月十八日には第1ラテラン公会議を開き、協約を承認させ、聖職売買の取り締まりなどの規則を可決した。この会議は、第4コンスタンティノポリス公会議から約二世紀半ぶりの公会議であり、西方で開かれた最初の公会議であった。
晩年の教皇はサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の再建に力を注ぎ、一一二四年十二月十三日に世を去った。クリュニー修道院やシトー修道会と親しかったことから、サンティアゴ巡礼の振興や十字軍、シトー会、テンプル騎士団の発展にも寄与した教皇として語られている。
同じ年に亡くなった人物
- アレグザンダー1世 (スコットランド王) (1124年没)
- ボジヴォイ2世 (1124年)
- ヴィプレヒト2世 (グロイチュ伯) (1124年没)
- ハサン・サッバーフ (1124年没)
- ノジャンのギベール (1124年)
同じ地域に関係する人物
- グレゴリウス11世 (ローマ教皇) (1378年没)
- Giuseppina Vannini (1911年没)
- ヨーゼフ・アントン・コッホ (1839年没)
- イザ・ミランダ (1982年没)
- ボリス・クリストフ (1993年没)