HISTORICAL PERSON · 1124年没

ヴィプレヒト2世 (グロイチュ伯)

グロイチュ伯。叙任権闘争で皇帝ハインリヒ4世側につき、のちその息子ハインリヒ5世の反乱に加わった。1113年に反皇帝同盟を結んで敗れ、1117年までトリフェルス城に幽閉された。

生涯
1124年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ザクセン州 / ペガウ)
出生地
—
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ザクセン州)

伝記

ヴィプレヒト2世は、1050年ごろ、アルトマルクの貴族ヴィプレヒト1世の息子として生まれた。1060年に父を失い、ノルトマルク辺境伯ウード2世のもと、シュターデで育った。1070年、自らのバルザムガウの所領をグロイチュ城と交換した。新領地へ入植者を招いたが、土着の豪族との戦争を招き、追放された。プラハへ逃れてボヘミア公ヴラチスラフ2世の参謀となり、皇帝ハインリヒ4世からも重んじられた。ヴラチスラフが王冠を得るために尽力し、グロイチュへも帰還した。帰還後はフランケン出身のドイツ人をムルデ川とヴィーラ川の間の村々へ移住させた。

1080年、ヴィプレヒトはハインリヒ4世の側で対立王ルドルフと戦い、1084年にはローマで教皇グレゴリウス7世に対抗した。1085年ごろにはヴラチスラフの娘ユーディトと結婚し、嫁資としてドレスデン周辺のニサニ地方とブディシン地方を得た。1087年に長男ヴィプレヒト3世が生まれた。1089年または1090年にはローマとサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼した。ツァイツの聖ヤコブ教会で敵を殺したための巡礼だったともいわれる。1090年ごろには次男ハインリヒが生まれ、ほかに娘ベルタももうけた。1091年、ペーガウにベネディクト会の聖ヤコブ修道院を創設し、1104年にはラウジックにも修道院を建てた。

1106年、皇帝の息子ハインリヒ5世による父帝への反乱に加わった。1108年にユーディトが死去し、1110年にはマイセン辺境伯オットー1世の娘クニグンデと再婚した。この後妻との間には子は生まれなかったと伝えられる。同時に長男ヴィプレヒト3世も、クニグンデと前夫の間に生まれた同名の娘と結婚し、親子の二重挙式となった。しかし長男がボヘミア公ボジヴォイ2世の復位を助けたため、皇帝の不興を買った。長男はボジヴォイとともに幽閉され、父ヴィプレヒトは亡妻ユーディトの嫁資だった地域や、ライスニヒとモルンゲンの権利を手放し、息子を解放させた。

1113年、テューリンゲン伯ルートヴィヒらと反皇帝の同盟を組んだが、マンスフェルト伯ホイヤーに敗れた。全財産の没収と引き換えに死刑を免れ、トリフェルス城へ収容された。その間、長男はザクセン公ロタールの側に立ち、1115年2月11日のヴェルフェスホルツの戦いで皇帝軍を破ったが、1117年に死去した。父の釈放の時期には異説があるものの、1118年には領地を回復し、マクデブルク城伯に任じられた。

1123年、マイセン辺境伯ハインリヒ2世が死ぬと、ヴィプレヒトは皇帝からマイセン、ラウジッツなどの辺境伯位を与えられた。しかしロタールとザクセンの貴族はこれに反発した。ロタールはマイセンをヴェッティン家のコンラート、オストマルクと下ラウジッツをアルブレヒト熊公に与え、ヴィプレヒトは対抗できなかった。1124年、ベルタの夫デード4世が死ぬと巡礼へ出たが、居館の火災で重い火傷を負った。同年5月22日、自ら創設したペーガウの修道院で死去した。グロイチュは娘ベルタが継ぎ、次男ハインリヒはマクデブルク城伯と下ラウジッツ辺境伯を受け継いだが、マイセンは継承できなかった。

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