伝記
オールバニ公ロバート・ステュアートは、スコットランドの王族で、ステュアート朝の開祖ロバート2世の三男である。1339年または1340年ごろに、のちのロバート2世(当時はスコットランドの大執事)と、アダム・ミュアの娘エリザベス・ミュアのあいだに生まれた。両親の結婚は、カトリック教会には認められていなかったが、父が教皇クレメンス6世に訴えて、1347年に子どもたちは嫡出と認められた。当時の国王ダヴィッド2世は、1346年にイングランドに捕らわれ、1357年に身代金を払って帰国した。ロバートは、1358年にその人質としてイングランドへ送られたらしいが、まもなく長兄のジョンと交代した。
1361年9月ごろ、ロバートはメンティス女伯マルガレート・グレアムの4番目の夫となり、妻の権利でメンティス伯を称するようになった。1362年に最初の子マードックが生まれた。ダヴィッド2世は、ステュアート家がメンティスを支配するのを阻もうとして、ロバートにメンティス伯の称号を認めなかった。1363年の初め、ロバートは、父、長兄、ダグラス伯、マーチ伯らとともに、ダヴィッド2世への反乱に加わった。反乱は王の軍勢にまもなく鎮圧され、父は5月14日にインチマードックで王に服した。1383年から1407年までは式部長官を務めた。
1390年に病弱な兄ロバート3世が即位すると、ロバートはガーディアン(摂政)として国政を主導した。1394年にロバート3世の病状が回復して摂政を解かれ、国王の長男ロスシー公が主導権を握ると、国王は弟の不満を抑えるため、同年7月24日に彼をバカン伯、1398年4月28日にオールバニ公に叙した。1401年、問題行動の多かったロスシー公は、オールバニ公の所領フォークランドの宮殿に幽閉され、1402年3月26日にそこで死んだ。そのため、王位を狙うオールバニ公が故意に餓死させたという噂が広まった。議会の査問では死は「神の摂理」と結論され、公的には疑惑は晴れた。気弱なロバート3世は疑いを強め、1406年の春に、三男ジェームズ(のちのジェームズ1世)をフランスへ送ろうとしたが、途中でイングランドの海賊に捕らえられ、ヘンリー4世のもとへ送られた。ジェームズは1424年までイングランドで幽閉される。この事件も、オールバニ公の陰謀とも噂された。
1406年4月にロバート3世が亡くなると、議会は、不在のジェームズ1世を国王、オールバニ公を摂政と宣言した。オールバニ公は国王同然にふるまい、自分の名を刻んだ印章を用い、文書の冒頭には「王の臣民たちへ」ではなく「我が臣民たちへ」と書いた。ジェームズ解放の交渉には消極的だった。南部の有力貴族ダグラス家と協定を結び、王領地を貴族に譲って、権力の基盤を固めた。1412年には、スコットランド最初の大学であるセント・アンドルーズ大学を創設した。フランスが1408年にアヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世の支持を放棄したため、スコットランド人学生がフランスの大学から排除されるおそれがあり、その対策として教書をもらって創設した。毎年1回の議会招集も行った。
1420年9月3日、オールバニ公はスターリング城で亡くなった。議会は、長男マードックを後継の摂政に指名したが、反オールバニ勢力が強まり、国王の帰還を求める声が高まった。ジェームズの帰国後の1425年5月、マードックらオールバニ公家は、ジェームズによって粛清された。最初の妻マルガレートとのあいだには7人の娘と1人の息子があり、彼女の死後はミュリエル・キースと再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- エルジュビェタ・グラノフスカ (1420年没)
- カラ・ユースフ (1420年)
- グリゴリイ・ツァンブラク (1420年)
- ヨハン3世 (ニュルンベルク城伯) (1420年没)
- ミールアリー・タブリーズィー (1420年)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム1世 (スコットランド王) (1214年没)
- マーガレット・オブ・デンマーク (1486年没)
- マードック (1425年没)
- アレグザンダー1世 (スコットランド王) (1124年没)
- ジェームズ・アバークロンビー (将軍) (1781年没)