HISTORICAL PERSON · 1896年没

イーヴァル・オーセン

ノルウェーの言語学者・詩人。農民の子として独学で言語学を学び、各地の方言を調べて1848年に文法書、1850年に辞典を編纂し、デンマーク語の影響を排した新しいノルウェー語ランスモールを完成させた。

生涯
1896年没
死亡地
ノルウェー王国(クリスチャニア)
出生地
ノルウェー王国(ムーレ・オ・ロムスダール県 / オルスタ)
出典
世界地図
ノルウェー王国(ムーレ・オ・ロムスダール県)

伝記

イーヴァル・アンドレアス・オーセンは、1813年8月5日、ノルウェー西部スンメール地方のオルステン教区にあるオーセンで、農民の子として生まれた言語学者・文献学者・詩人である。デンマーク語の影響を排した新しいノルウェー語の確立に努め、のちにランスモール(現在のニーノシュク)と呼ばれる書き言葉をつくり上げた。父イーヴァル・ヨンソンは小農で、1826年に亡くなった。幼少期はおもに農場の仕事に追われたが、暇な時間はほとんど読書に費やし、植物学にも興味をもった。18歳のとき、生まれた教区に小学校を開いて教師となった。1833年には、ヘロイ教区でハンス・コンラード・トーレセンから基礎的なラテン語の教えを受けた。やがていくつもの言語を身につけ、その構造を科学的に研究し始めた。

当時のノルウェーは、400年を超えるデンマークの支配から政治的に脱したばかりで、自治権の獲得にとどまらず、文化的にもデンマークから独立しようとする運動が盛んだった。言語の面でも、デンマークの影響が強い従来のノルウェー語を見直し、新しい自国語をもとうとする動きが生まれた。そこには二つの流れがあった。一つは従来のデンマーク語風ノルウェー語を基盤に、ノルウェー独特の語彙を加えようとするもので、のちの「リクスモール」にあたる。もう一つはデンマーク語の影響を排し、古来のノルウェー独自の言語を復活させようとするものだった。熱心な民族主義者だったオーセンは後者に加わった。

1841年にベルゲンへ出て、司教ヤコブ・ノイマンと出会うと、司教が彼の仕事の抜粋を地元紙に載せた。それを目にしたトロンヘイムの教区長が、王立ノルウェー科学協会を説得して、ノルウェー各地を旅する費用の援助を決めさせた。協会は毎年かなりの額の奨学金を与え、1842年にはさらに別の給付も始まって、彼は言語学の研究に専念できるようになった。1843年に故郷の方言による民謡の小さな集成を出し、好評を得た。全国の主要な方言を調べ、1848年に『ノルウェー民族言語文法』、1850年に『ノルウェー民族言語辞典』を編んだ。辞典は、ノルウェーの民衆語をつくり上げる土台となった。1847年にクリスチャニア(現在のオスロ)に移り、ほとんどの期間を下宿で本に囲まれて静かに過ごした。

1853年ごろには、新しい言語を使うための方法を整え、これをランスモールと名づけた。『ノルウェーにおけるランスモールの試み』(1853年)に続いて、『ノルウェー語文法』(1864年)、『ノルウェー語辞典』(1873年)を発表した。ランスモールは、デンマークの影響を受けにくかった西ノルウェーや山間の僻地に残った方言を集成したものである。自らもランスモールで詩や戯曲を書き、音楽劇『継承者』(1855年)は広く人気を集めて、のちにヴィニエからガルボルグに至る作家たちに影響を与えた。詩集『アネモネ』(1863年)や昔話も発表している。ランスモールは次第に勢力を増し、1885年にはノルウェー議会によって、リクスモールと並ぶ第二の公用語として認められた。オーセンは1896年9月23日にクリスチャニアで没し、国の栄誉をもって葬られた。ランスモールは1929年にニーノシュク、リクスモールはブークモールと改称され、現在も二つの公用語が併存している。

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