伝記
シャルトルのイヴォは、1040年頃にフランス北部のボーヴェ地方に生まれた教会法学者である。小貴族の家に育ち、ボーヴェの司教座学校とパリで学んだのち、ノルマンディーのベック修道院に入った。そこでランフランクスを師とし、カンタベリのアンセルムスとともに学んだ。ピカルディーのネスルで修道祭式者となり、1078年には郷里の司教からサン・カンタンの共同体の指導を任された。アウグスティヌスの規則に従うこの共同体で改革を進め、その運営は他の共同体の模範となった。
1090年、聖職売買を理由にシャルトル司教が罷免されると、後任に選ばれた。前任者の異議申し立てがあったものの、教皇自らがイヴォを聖別した。当初はフランス王フィリップ1世の支援を受け、聖職者による聖職売買と戦った。しかし1092年、王がベルト・ド・オランドと離別し、アンジュー伯の妻ベルトラード・ド・モンフォールと結婚すると、イヴォはその婚姻を非難した。このため王の家臣の城に投獄され、数か月の拘禁を経て釈放された。自由を取り戻してからも、王の再婚や、ベルトラードに近い者を司教座などに就けることへの反対を続けた。
1093年から1095年にかけて、『教令集』『三部作集成』『教会法典集』を完成させた。『教令集』は17巻、3,760の法文からなり、ヴォルムスのブルカルドゥスの法令集や『擬イシドルス文書』を多く用いた。『三部作集成』には、クレメンス1世からウルバヌス2世までの教皇令や、東西の教会会議の決議、教父の著作などを収め、自身の『教令集』の簡略版も組み込んだ。教皇令655件は年代順に配列され、教会会議などの決議は789件に及んだ。これに対して『教会法典集』は、聖職者の日々の実務に役立つように法文を整理した書である。序言と本文8巻で構成し、約1,040の法文に明快な要約を添えた。信仰や秘跡、聖職者の権利、婚姻などを体系的に扱い、序言では恒久的で普遍的な法と、状況に応じて変わりうる法とを区別する解釈を示した。
1095年には第1回十字軍のための説教旅行をしていた教皇をロワール地方に迎え、1097年にはヌヴェールのサン・テティエンヌ修道院の新しい教会を献堂した。同じ1097年、サンスのダンベールの叙任をめぐる対立について意見を求められ、司教の霊的な職務と司教座に伴う土地財産を分けて考えた。叙階によって与えられる霊的責任は俗人の権力に属さないが、土地財産の授与は王にも行いうるという考えである。聖職者の自由を守りつつ、教会と世俗の権力の協働を認める立場であった。残された書簡は道徳、法律、神学のさまざまな問題に及び、そこで引用した法文の多くは自身の『教令集』に由来する。
法令集は他の編纂者にも用いられ、1106年頃のリエージュのアルゲルスの『慈悲と正義』にも影響が認められる。イヴォは1115年12月23日に没した。霊的な叙任と世俗的な授与を区別する構想は、1122年のヴォルムス協約へとつながった。また、相互に矛盾する教会法令を調和させる方法は、1140年頃に編纂されたグラティアヌスの『矛盾教会法令調和集』で、さらに展開されることになった。
同じ年に亡くなった人物
- マティルデ・ディ・カノッサ (1115年没)
- マグヌス・エーレンドソン (1115年没)
- オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公) (1115年没)
- 八の鹿 (1115年)
- オーラヴ・マグヌソン (1115年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ロトルー (1650年没)
- ローラン・カセグレン (1693年没)
- Marc Athanase Parfait Oeillet Des Murs (1894年没)
- Louis Perree (1924年没)
- マリー・ド・ブローニュ (1182年没)