伝記
マグヌス・エーレンドソンは、オークニー伯エーレンド・トールフィンソンとトーラの息子で、生年は1075年とも1080年ともいわれる。祖父トールフィンの息子であるエーレンドとポールは双子で、兄弟でオークニーを統治していた。マグヌスは父方の祖母インギビオルグを通してノルウェー王家につながる家系に属した。1098年、ノルウェー王マグヌス3世が諸島を掌握し、エーレンドとポールを退けて幼い王子シグルドを伯に据えた。実際の統治は、ポールの息子でマグヌスの従兄に当たるホーコンが担うことになった。
マグヌス自身は王の遠征に従い、スコットランドやイングランド、ウェールズの沿岸へ向かった。しかしアングルシー島付近での戦闘では、キリスト教への信仰を理由に戦うことを拒み、船上で詩編を歌っていたとされる。この態度によって王との関係が悪化し、しばらくスコットランドで暮らした。王エドガーの宮廷に身を寄せたほか、ウェールズの司教のもとで悔悛の時期を過ごし、イングランドにも滞在したという。1105年には貴族の女性と結婚した。妻はインガルトという名ともいわれ、夫婦は貞潔の誓いを守って生活したとされる。
やがて故郷へ戻って父からの相続権を主張すると、農民や有力な家々の支持を得たが、ホーコンは統治権を分けることを拒んだ。争いはノルウェー王の裁定に委ねられた。マグヌスがノルウェーへ赴いたとき、シグルド王はエルサレム巡礼で不在であり、エイステン王がマグヌスの主張を支持して諸島の半分の伯位を認めた。こうして1108年からホーコンとの共同統治を行った。しばらくは平和が続いたものの、略奪遠征を望む戦士たちの一部は、それを認めないマグヌスから離れてホーコン側についた。1114年までに共同統治は崩れ、双方はメインランド島で戦うようになった。
和平交渉のため、両者はそれぞれ船2隻だけでエギルセー島に集まると約束した。1115年4月、マグヌスは約束どおりに赴いたが、ホーコンは8隻の船で現れた。劣勢に立ったマグヌスは流血を避けるため部下に戦わないよう命じ、捕虜となった。巡礼に出ることやスコットランドへの追放など、殺害を避けるための案を示したが、戦士の長たちの集会は伯の一方を死なせるよう求めた。ホーコンに近い者が処刑を拒むと、料理人リフォルフが命を受け、斧で頭部に致命傷を負わせた。マグヌスは執行に当たる者の魂のために祈ったという。死去は4月16日とされ、年は1117年とする説もある。
亡骸は当初その場に葬られ、石の多い土地から緑の草が生えたという伝説が生まれた。母の願いによって、後にバーセーの教会へ移された。墓には巡礼者が集まり、治癒の奇跡が語られた。信仰を迷信としていた司教ウィリアムも、失明したのち墓前で祈って視力を回復したと伝えられる。甥のログンヴァルドは、伯位を求めるに当たって伯父を記念する石造教会を寄進すると約束した。1135年には遺骨がカークウォールの聖オーラヴ教会へ移され、1137年には聖マグヌス大聖堂の造営が始まった。1917年、大聖堂の柱のくぼみから損傷した頭蓋骨を含む遺骨が箱に収められた状態で見つかり、マグヌスのものとされた。
同じ年に亡くなった人物
- ジェルベルジュ・ド・プロヴァンス (1115年没)
- マティルデ・ディ・カノッサ (1115年没)
- アデル・ド・フランドル (1115年没)
- ティエリー2世 (ロレーヌ公) (1115年没)
- 八の鹿 (1115年)
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