HISTORICAL PERSON · 1115年没

オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)

チェルニゴフ公。父の死後に領地を追われトムタラカニへ逃れたが、キエフ大公に捕らえられコンスタンティノープル経由でロドス島に流刑となり、後に帰還を果たした。

生涯
1115年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オレグ・スヴャトスラヴィチは、チェルニゴフ公スヴャトスラフとその最初の妻キキリヤの息子で、1050年代初めごろに生まれた。洗礼名はミハイルである。父の存命中にウラジーミル・ヴォリンスキーへ派遣され、父の代理としてヴォルィーニを統治した。1076年には従兄弟ウラジーミル・モノマフとともに、ボヘミア公と争うポーランド王ボレスワフ2世への援軍を率いた。しかし父の死後、ポーランドの支援を受けた伯父イジャスラフがキエフ大公位を取り戻すと、オレグは自領を追われ、叔父フセヴォロドのいるチェルニゴフに身を寄せた。

1078年、オレグは北コーカサスのルーシ領トムタラカニへ逃れ、ボリスおよびポロヴェツ族と結んで反攻した。8月25日、フセヴォロドを破ってチェルニゴフへ入ったが、10月3日のニヴァ平原の戦いでは敗北した。この戦いではイジャスラフとボリスがともに死に、オレグはトムタラカニへ撤退した。翌1079年には捕らえられてコンスタンティノープルへ送られ、さらにロドス島に流された。そこでビザンツの貴族の娘フェオファニヤと結婚した。帰還の許しを得たのち、1083年にダヴィドとヴォロダリを追放し、トムタラカニ公の地位に復帰した。

1094年、父の旧領チェルニゴフを得ようと、再びポロヴェツ族と結んで遠征した。モノマフの守る町を8日間包囲し、モノマフをペレヤスラヴリへ退かせた。同行したポロヴェツ族は町を略奪し、オレグもこれを許したとされる。この同盟は、ルーシの地に異教徒を呼び込んだとして非難の対象となった。1095年には諸公の対ポロヴェツ遠征に加わらず、モノマフの息子イジャスラフが治めるムーロムを攻めた。

1096年、モノマフとキエフ大公スヴャトポルクからの交渉の呼びかけを拒んだため、両者の軍に攻められた。スタロドゥーブへ移って33日間守ったのち、和平を求めたものの、兄弟ダヴィドとともにキエフへ来るようにとの要求には従わなかった。スモレンスクへ向かい、ダヴィドの部隊を率いてムーロムを再び攻撃し、イジャスラフを戦死させた。さらにスーズダリとロストフを奪い、代官を置いて貢納を課した。しかし、モノマフの長男でノヴゴロド公のムスチスラフに押し返され、和平交渉へ進むことになった。

1097年、オレグはリューベチの諸公会議に参加した。各家が父祖の地を世襲する原則が定められ、チェルニゴフ領はオレグら兄弟の世襲領と認められた。自身はノヴゴロド・セヴェルスキーとクルスクを得て統治した。その後も1098年のゴロデツ、1100年のウヴェチチ、1101年のサコフ、1103年のドロプスクの会議に出席し、諸公の紛争やポロヴェツ族への対応に関わった。1107年にはルーシへ侵入したシャルカンに対する遠征に参加し、ロブナへ進んだ。同年、息子スヴャトスラフとポロヴェツ族の長アエパの娘を結婚させた。オレグ自身も再婚でオソルクの娘を迎えており、この息子はその間に生まれた子であった。1115年8月1日に死去し、チェルニゴフの救世主大聖堂に葬られた。その子孫はオレグ家と呼ばれ、チェルニゴフやノヴゴロド・セヴェルスキー、その分領の公を輩出した。

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