HISTORICAL PERSON · 1109年没

クリュニーのユーグ

クリュニー修道院長を60年以上務めた中世修道会随一の権威者。カノッサでの教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世の対立では代父として調停役を務めた。

生涯
1109年没
死亡地
フランス共和国(ソーヌ=エ=ロワール県 / クリュニー)
出生地
フランス共和国(スミュール=アン=ブリオネ)
出典
世界地図
フランス共和国(ソーヌ=エ=ロワール県)

伝記

クリュニーのユーグは、1024年5月13日、スミュール卿ダルマス1世の子として生まれた。ユーグ・ル・グラン、ユーグ・ド・スミュールとも呼ばれる。父は長男を騎士にしようと望んだが、本人はその道を選ばず、聖職者となるための教育を受けた。1037年にはシャロンのサンマルセル修道院に入り、若くしてクリュニーの修道生活へ進んだ。入会の年齢には違いがあるものの、15歳で誓願を立てたとされる。1044年に司祭となり、のちに副院長を務めた。1048年、教皇に選ばれたトゥール司教ブルーノに同行してローマに赴き、そのレオ9世としての登位に立ち会った。翌1049年、オディロンの後継者としてクリュニー修道院長に選ばれ、同年のランス公会議にも参加した。

院長となってからは、ヨーロッパ各地に広がるクリュニー系の教会を訪ね、教会の会議にも繰り返し出席した。1050年にはローマの会議に参加している。1053年から1065年の間に、カスティーリャとレオンのフェルナンド1世は、修道院に毎年1000オーレイを贈ることを定めた。こうした王家との関係は、後年の建築を支える資金にもつながった。1054年にはトゥール公会議に出席し、1058年3月にはフィレンツェで教皇ステファヌス9世の臨終に立ち会った。1059年と1063年にもローマで開かれた会議に加わり、教皇庁と各地の修道院を結ぶ活動を続けた。

1072年にはヴォルムスの国会に参加した。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の代父でもあり、皇帝と教皇グレゴリウス7世が争った叙任権闘争では、カノッサで両者の仲立ちを試みた。ただし、その調停は対立を解消するには至らなかった。教会のためにドイツやハンガリーでも外交に携わった。フェルナンド1世から始まった修道院への定期的な援助は、1077年にアルフォンソ6世によって確認された。1079年にはフランス王フィリップ1世が、パリのサン=マルタン=デ=シャンの修道施設をクリュニーに譲った。南フランスやスペイン北部でも分院の設立を進め、修道院の結びつきを広げていった。

1088年、ユーグはクリュニー第三聖堂の建設に着手した。聖ペテロと聖パウロに捧げられたこの建物は全長187メートルに及び、五つの身廊、二重の翼廊、五つの塔を備えた。細長い聖歌隊席の周囲には礼拝堂が放射状に配置された。1089年にはイングランドで最初のクリュニー系施設とされるサン・パンクラス修道院を創設した。1090年、アルフォンソ6世は援助を再確認し、年額を従来の倍にした。この定期収入は、クリュニーが王や一般の寄進者から受けた年金の中でも最大のものであった。

ユーグは1109年4月、クリュニーで死去した。没日は28日とも29日ともされる。院長としての在任は60年に及んだ。1120年1月6日、クリュニーを訪れた教皇カリストゥス2世は、修道士たちの求めを受けてユーグを列聖した。パリのジルはその生涯を著した。第三聖堂は、16世紀にローマのサン・ピエトロ大聖堂が再建されるまで、ヨーロッパ最大の宗教建築であり続けた。遺体や聖遺物は16世紀にユグノーの略奪を受け、多くが失われた。

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