HISTORICAL PERSON · 1098年没

カイ・カーウース

ズィヤール朝の君主。セルジューク朝の臣下で実権は乏しかったが、ペルシア文学の重要作品『カーブースの書』の著者として知られる。

生涯
1098年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

カイ・カーウースは、一〇二一年に生まれたズィヤール朝の君主であり、ペルシア語の著作『カーブースの書』を著した人物である。父はイスカンダル、祖父は君主カーブースで、出生時には叔父マヌーチフルが統治していた。父イスカンダル自身は王位に就かなかった。王朝の支配地域であったタバリスターンやゴルガーンは、周囲のガズナ朝やセルジューク朝の勢力の下に置かれるようになり、一〇四一年から一〇四二年にはセルジューク朝のトゥグリルが侵入した。地域には総督が置かれたが、ズィヤール朝のアヌーシルヴァーンは名目上の支配者として残された。

この時期、カイ・カーウースは中東各地を旅した。ガズニーには八年間滞在し、ガズナ朝のスルターン、マフムードの娘と結婚した。この妻との間に、後継者となるギーラーンシャーが生まれたとされる。メッカ巡礼も行い、その後はアッラーン地方のガンジャへ向かった。同地のシャッダード朝の君主アブル・アスワール・シャーヴルの宮廷に赴き、アニへの遠征を助けた。一〇五〇年にアヌーシルヴァーンが死ぬと、カイ・カーウースがタバリスターンの君主を継いだとされるが、即位の時期は確かではない。セルジューク朝への従属によって実権は限られ、内陸の小さな山地の領土を治めるにとどまった。その統治は長く平穏で、文化的な活動に携わった。

晩年の一〇八二年、息子ギーラーンシャーに教訓を伝えるため『カーブースの書』を書いた。書名は祖父カーブースにちなみ、母語であるペルシア語を用いた。序文では息子が教えを守らなくなったことを嘆き、徳のある生活を送るよう促している。全体は四十四章で、世界の創造、神と宗教上の務めから説き始め、親への義務、精神を養うこと、言葉の力へと話を進める。さらに青年期と老年期のあり方、食事の節度、飲酒、チェスや盤上遊戯、愛、入浴、睡眠と休養など、日常生活の事柄にも教えを及ぼした。

その助言は生活上の作法だけにはとどまらない。狩猟、ポロ、戦争、財産の蓄積や購入、約束への信頼、結婚と子供の教育、友人の選び方、敵への備え、赦しと処罰を扱う。学問や法務、商取引、医学、占星術と数学、詩や吟遊の技についても述べた。後半では王に仕える者、廷臣、書記、宰相、将軍、王それぞれの資質と務めを説き、農業を経て寛大さの章で結ぶ。訓戒には多くの逸話が添えられており、息子に向けて幅広い行動の指針を示す構成になっている。

同書では自らの高貴な出自も語り、父方をギーラーンの王アルガシュ・ファルハドワンドに結び付け、母をガズナ朝の王女としている。サーサーン朝の王ホスロー一世にさかのぼる血筋も挙げ、タバリスターンの有力者ハサン・イブン・アルフィールーザーンの娘を父方の先祖に持つとも述べた。このハサンはマーカーン・イブン・カーキーの親族であった。また、祖父カーブースを、侮辱を許さず残酷だったために軍の反発を招いた君主として描いた。叔父マヌーチフルが父を捕らえたのは、軍が王国を他家へ移すと迫り、一族の王位を守るために受け入れざるを得なかったからだと説明した。カイ・カーウースは一〇八七年に死に、息子が継いだとされるが、没年には異説があり、確かな時期は明らかではない。

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