伝記
ムクタディーは、一〇五六年七月二十四日に生まれたアッバース家の王族で、バグダードを拠点とする第二十七代カリフとなった。本名はアブドゥッラー・イブン・ムハンマド・イブン・カーイム、通称はアブルカースィムである。父ムハンマド・ズァヒーラトルムルクはカリフのカーイムの息子で、母はアルメニア人の奴隷女性ウルジュマーンだった。母はクッラトルアインの名でも知られた。一〇七五年、臨終の祖父カーイムは、イブン・ジャヒールとその息子ほど王朝に尽くす者はいないとして、引き続き重用するよう孫に勧めた。ムクタディーは四月二日に祖父の後を継いだ。
一〇七七年、バグダードのニザーミーヤ学院にクシャイリーが講師として来ると、ハンバル派とアシュアリー派の間で死者を出す騒乱が起きた。この騒乱では、セルジューク朝宰相ニザームルムルクの息子ムアイヤドルムルクも危険にさらされた。宰相はファフルッダウラ・イブン・ジャヒールに責任があると考え、翌年に使者ガウハル・アインを送った。使者が七月二十三日にバグダードへ着いた同じ日、ファフルッダウラの息子アミードッダウラはイスファハーンへ到着した。宰相の意図を知り、使者との遭遇を避けて山道を回って来たのである。
バグダードでは八月十四日、ガウハル・アインが謁見し、ファフルッダウラの解任を求める書簡を渡した。ムクタディーは初め拒んだが、八月二十七日までには、従わなければ宮殿を攻撃すると脅された。独自の軍を持たないカリフは抗し切れず、ファフルッダウラは罷免を待たず辞職し、その後は軟禁された。一方、宰相とアミードッダウラの間では和解が成立し、宰相の孫娘との婚約も結ばれた。ムクタディーはすぐにジャヒール家を復職させなかったが、ニザームルムルクが後に介入して復職を実現した。祖父に重用を託された一家の処遇も、セルジューク朝の圧力によって動かされることとなった。
一〇八一年、ムクタディーはマリク・シャーの娘との婚姻を交渉するため、ファフルッダウラをイスファハーンへ派遣した。使者は贈り物と二万ディーナールを超える金を携えたが、マリク・シャーは息子ダウードの死を悲しみ、交渉に加わらなかった。今回はファフルッダウラとニザームルムルクが協力し、テルケン・ハトゥンに話を持ちかけた。しかしガズナ朝の支配者から十万ディーナールの申し出があり、初めは関心を示されなかった。かつてカーイムに嫁いだハディージャ・アルスラーン・ハトゥンが、カリフとの婚姻の方が名誉になると説いた。最終的にテルケンは、五万ディーナールに加えて婚資十万ディーナールを払い、現在の妻や側室を離れ、ほかの女性と関係を持たないことを条件に同意した。
一〇八三年、ムクタディーはジャヒール家を解任した。その経緯には複数の説があり、一家を疑ったカリフが、無断でホラーサーンへ出たことを理由に解任したとも、セルジューク朝が自らの官僚として雇うために引き渡しを求めたともいわれる。一家は同年七月二十二日にバグダードを去ったとされ、後任の宰相には、宮殿の建物を管理していたアブルファトフ・ムザッファルが就いた。王女との婚姻は一〇八七年に行われた。ムクタディーはその後もカリフの地位にあり、一〇九四年二月に死去した。
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