伝記
ギヨーム4世は、1040年ごろに生まれたトゥールーズ伯で、プロヴァンス辺境伯、ナルボンヌ公の称号も持った人物である。父はトゥールーズ伯ポンス、母はアルモディス・ド・ラ・マルシュで、その長男であった。母はギヨームがまだ少年だったころ、夫のもとを去ってバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世と結ばれた。1060年ないし1061年に父の後を継ぐと、ギヨームはその財産と称号の大部分を受け取った。一方、弟レーモンが継承したのは、サン・ジル、ニーム、ナルボンヌなどの伯領であった。
1065年、親族のロデーズ女伯ベルトが死ぬと、弟レーモンはその継承権を主張して行動したが、ギヨームは対抗しなかった。最初の妻は出自の分からないマチルダで、1067年より前に結婚していた。二人の間にはポンスと名の分からない息子が生まれたとされるが、いずれも父に先立って若くして死んだ。ポンスの死は1079年5月15日より前とされる。1080年には、モルタン伯ロベールとマティルダ・ド・モンゴメリーの娘エマを二度目の妻に迎えた。この結婚で娘フィリッパをもうけ、最終的にこの娘が唯一の相続人となった。ポンスをエマの子とする説もあるが、成人して父の跡を継いだ男子はいなかった。
1088年、ギヨームは聖地へ向かい、弟レーモンを代理の統治者に任じた。同年の書状には兄弟がともにトゥールーズ伯の称号を用いていた形跡もあり、弟はすでに伯領の権力に関わっていた。父ポンスは、ギヨームが男子を残さず死んだ場合、その財産を弟へ渡すよう定めていたとされる。また、トゥールーズでは女性による相続の前例がなく、フィリッパの権利をそのまま認めるかという問題が残った。聖地への巡礼中、1092年とも1094年ともいわれる年に死去した。
兄の不在中から統治を担っていたレーモンは、ギヨームの死後に伯領の支配を握り、レーモン4世となった。しかしフィリッパは父の領地に対する権利を放棄しなかった。1094年にアキテーヌ公ギヨーム9世と結婚すると、夫妻はトゥールーズの領有を主張した。その後もレーモンとその子供たちから領地を取り戻そうと争いが続いた。フィリッパを通じてギヨーム4世の血を引く子孫も、トゥールーズ伯領への要求を受け継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ロジャー・ド・モンゴメリー (初代シュルーズベリー伯) (1094年)
- ニケフォロス (1094年没)
- マフムード1世 (セルジューク朝) (1094年没)
- アル=ムスタンスィル・ビッラー (1094年没)
- アク・サンクール・アル=ハジブ (1094年没)
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