伝記
ワッラーダは、アンダルスのコルドバのウマイヤ朝カリフ、ムハンマド3世アル・ムスタクフィーの娘で、詩人として活動した女性である。994年から1010年の間にコルドバで生まれたとされ、母はキリスト教徒の奴隷アミンアムであった。王家の一員という立場から、豊かな文学教育を受けることができた。父は1024年1月11日、先代のアブド・アッラフマーン5世を殺してカリフとなった。しかし宮廷の権力争いが続く中、父もまもなく殺害された。ウクレスで暗殺されたとも、毒殺されたともいわれる。1025年に父を失ったワッラーダは、男子の相続人がいなかったため財産を継ぎ、王宮から離れて暮らす道を得た。
結婚せず、相続財産によって男性の後見から独立すると、コルドバに邸宅を開き、文学と芸術のサロンを設けた。良家の娘だけでなく奴隷の女性たちにも詩や歌を教え、詩人や散文家、法律に通じる人々が集まる場とした。邸宅では文人たちが腕を競い、ワッラーダ自身も詩を作った。その作品では巧みな技巧と当時の芸術の傾向への理解を示し、詩句を生み出す力を高く評価された。教え子には、イチジク売りの娘であったムフヤ・ビント・アル・タイヤーニーがいる。貧しい出自のこの少女を自宅に迎えたが、ムフヤは後にワッラーダを厳しく風刺する詩を作るようになった。ワッラーダは赤みを帯びた金髪と白い肌、青い目を持ち、美貌と学識で知られた。熱情的で優しさを備え、気さくに振る舞い、自信に満ちていたとされる。街路でもヴェールを着けず、衣服の肩に自作の詩を刺繍した。男性と詩の応酬をしたり、他人の作りかけた詩を完成させたりする振る舞いは、同時代の人々の間で論議を呼んだ。
詩人イブン・ザイドゥーンとの恋愛は、二人の間に交わされた詩によって伝えられている。詩の宴で夜通し応酬し、競争心がやがて愛情になったという話もあるが、伝説として語られるものである。イブン・ザイドゥーンはウマイヤ家と対立するバヌー・ジャフワル家に結び付いていたため、関係は秘密にされた。彼が匿名の短い詩を送ってもワッラーダは相手が分からず取り合わず、署名入りの詩が届いて初めて応じたともいう。現在残るワッラーダの9編の詩のうち8編は、この恋愛をめぐるものである。二人の仲は短く、イブン・ザイドゥーンがワッラーダの黒人の奴隷女性と関係を持ったために破れたともいわれる。ただし、これは当時の詩によく見られる筋立てでもあり、そのまま事実とは断定できない。別れた後、イブン・ザイドゥーンは彼女への激しい風刺詩を作った。
生活ぶりを非難する人もいたが、支持し擁護する人々も多かった。ワッラーダは結婚せず、財産も失わずに暮らした。カリフの政権が崩れて小王国の時代になると、『鳩の頸飾り』の著者イブン・ハズムや、宰相イブン・アブドゥースの保護を受けたとされる。二人は恋人だったともいわれ、とりわけイブン・アブドゥースは長く思いを寄せ、晩年までそばにいて支えたという。1091年3月26日、コルドバで死去した。その日はムラービト朝がコルドバに入った日でもあった。遺された詩は、実際に作ったと考えられる作品のごく一部である。
同じ年に亡くなった人物
- アデライデ・ディ・トリノ (1091年没)
- スティエパン2世 (1091年没)
- Helen of Hungary (1091年没)
- Artuk Bey (1091年没)
- ディルク5世 (ホラント伯) (1091年没)
同じ地域に関係する人物
- ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス (1778年没)
- ザルカーリー (1087年没)
- アブド・アッラフマーン5世 (1024年没)
- マスラマ・ビン・アフマド・アル=マジリーティー (1007年没)
- ムハンマド2世 (1010年没)