伝記
アデライデ・ディ・トリノは、北西イタリアのトリノ辺境伯領を治めたアルドゥイーノ家の女性である。1014年ごろ、または1020年ごろ、トリノ辺境伯オルデリーコ・マンフレーディ2世とベルタ・ディ・ミラノの娘として生まれた。妹にインミッラとベルタがいた。兄弟は父より先に没したとされ、1033年または1034年12月に父が死ぬと、遺領の大部分を相続した。領地はスーザ谷を含むトリノ、アウリアテ、アスティなどに及び、母ベルタが一時的に摂政を務めた。アルベンガ、アルバ、ブレドゥーロ、ヴェンティミーリアにも財産を継いだが、伯としての権力まで及んでいたとは考えられていない。
当時の辺境伯には軍事上の役割が強く、女性が就くにはふさわしくないとみなされた。皇帝コンラート2世は、妻の連れ子であるシュヴァーベン公ヘルマン4世との婚姻を整え、1036年か1037年に結婚したヘルマンがトリノ辺境伯となった。しかし1038年、夫は皇帝に従うナポリ遠征中、疫病で死去した。広大な所領を守るため、アデライデはおそらく1041年、遅くとも1042年1月19日以前にモンフェッラート侯エンリコと再婚した。この夫も1045年ごろに没し、1046年にはサヴォイア伯オッドーネと3度目の結婚をした。最初の二つの結婚に子はなく、オッドーネとの間にピエトロ、アメーデオ、オッドーネの3男と、ベルタ、アデライデの2女をもうけた。
1057年から1060年ごろにオッドーネが没した後は再婚せず、息子ピエトロ1世やアメーデオ2世とともにトリノ辺境伯領とサヴォイア伯領を統治した。拠点をスーザへ移して永住したともいわれるが、実際にはトリノの辺境伯宮殿との結び付きが強かった。領内の修道院へ多くの寄進を行い、1064年にはピネローロのサンタ・マリア修道院を創建した。1066年には娘ベルタがハインリヒ4世と結婚した。教会改革への態度は一様ではなく、聖職者の独身制を進めることや修道院の保護を求められる一方、1066年か1067年には教皇アレクサンデル2世から、聖職売買に関わるミラノ大司教グイド・ダ・ヴェラーテへの対応を非難された。皇帝が1069年にベルタとの離婚を企てたため、皇帝家との関係は冷え込んだ。翌1070年には、反乱を起こしたアスティを制圧して焼いた。
1077年、ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世への謝罪のためカノッサへ向かうと、娘ベルタの働きかけもあり、領内を通ってイタリアへ入るのを助けた。その見返りとしてビュジェイを受け取り、息子アメーデオとともに皇帝夫妻へ同行した。カノッサではマティルデ・ディ・カノッサやアルベルト・アッツォ2世らと、教皇と皇帝の調停に当たった。1080年から1082年にはアルバ司教ベンツォから皇帝への支援を求める書簡を受け、その後は皇帝との関係を深めた。皇帝とマティルデの仲介も申し出ており、1084年の南イタリア遠征に加わった可能性もある。1091年12月19日に死去した。晩年の22年間を身元を隠して過ごし、カニスキオの教会に葬られたという後世の伝承があるが、確実とはされていない。スーザの大聖堂には、ひざまずいて祈る姿を表したクルミ材の像が置かれている。
同じ年に亡くなった人物
- Artuk Bey (1091年没)
- ディルク5世 (ホラント伯) (1091年没)
- Helen of Hungary (1091年没)
- スティエパン2世 (1091年没)
- ワッラーダ (1091年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエトロ・ジャンノーネ (1748年没)
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 (1824年没)
- Giuseppe Delfino (1999年没)
- マイク・パークス (1977年没)
- ウンベルト・アニェッリ (2004年没)