伝記
アッ=ザルカーリーは、11世紀のアンダルスで活動したアラブ系の数学者・天文学者である。1028年または1029年ごろ、トレドに生まれたとされる。ラテン語化されたアサルキエルという呼び名は、鮮やかな青い目に由来する、生前のあだ名をもとにしている。鍛冶や金細工の仕事に携わり、金属を加工する優れた技能によって、精密な科学機器を作った。トレドのタイファ王国にいたアラブ人やユダヤ人の天文学者から、製作を求められたと考えられている。こうした学者との交流を通じ、独学で天文学への理解を深めたとされる。
代表的な機器は、アストロラーベを改良したアサフェアである。観測者が特定の場所にいることを必要とせず、地球上のどの緯度でも天文上の計算に使うことができた。緯度による制約を受けないことから、航海で用いるのにも適した器具であった。理論的な知識と製作の技能を兼ね備え、時刻を知るための水時計も作った。保護者であったトレド王アルマームーンの依頼による水時計は、皮なめし職人の門とタホ川の間にある、アルクルニアの庭と呼ばれた場所に置かれた。この時計は時刻と月の満ち欠けを示した。
観測と計算の面では、プトレマイオスの地理上の数値を修正し、特に地中海の大きさに関する値を改めた。また、太陽の遠地点が天球に対して年々移動することを示した。過去二十五年間の観測を検討して求めた変化の値は、一年当たり12.04秒であり、現在の値である11.8秒に近い。春分点の歳差にも関心を持ち、その現象を説明しようとする著作を書いた。天体の動きを調べるため、助手たちの仕事によって、多くの現象について精密な観測値を得ていた。
『トレド表』のアラビア語版の編纂にも関わったが、その成果にはフワーリズミーやバッターニーの仕事も含まれている。これらの天文表は、天体が空のどこにあるか、月相などの現象がいつ起こるかを求めるためのもので、将来の天体の位置を計算するのに使われた。ザルカーリーは豊富な観測値と表を用い、何年も、さらに何世紀も後の日食を予測することができたとされる。惑星の位置や日食、月食を予測する表のほか、コプト暦、ローマ暦、ペルシア暦の月の始まりを求める表も作った。彗星の出現予測も行った可能性がある。ただし、どのような方法を用いたのか、実際に予測に成功したのかについては、確かなことは分かっていない。
1085年にトレドがカスティーリャ側に征服されると、セビリアへ移り、1087年にそこで没した。12世紀にはクレモナのジェラルドが著作をラテン語に訳し、キリスト教圏の天文学に伝えた。1225年から1231年の間には、トレドのユダヤ人イェフダ・ベン・モシェとギレルムス・アングリクスが、アサフェアに関する論書をラテン語に訳した。同じ論書は1260年代に、アルフォンソ10世の王室の学術活動に携わったイェフダによって、カスティーリャ語にも移された。後の数学者ラプラスも、惑星の位置や運行を計算する際に、ザルカーリーの観測と記録を利用した。天文表のラテン語訳は広く伝わり、ヨーロッパの図書館には128を超える写本が残っている。一方、歳差に関する著作は失われている。
同じ年に亡くなった人物
- シャラモン (ハンガリー王) (1087年没)
- オトン4世 (ブルゴーニュ伯) (1087年没)
- ウスタシュ2世 (ブローニュ伯) (1087年)
- ギヨーム1世 (ブルゴーニュ伯) (1087年没)
- ドブロネガ・ウラジミロヴナ (1087年没)
同じ地域に関係する人物
- ホセ・ビジャロンガ (1973年没)
- アブド・アッラフマーン5世 (1024年没)
- Ermengol I (1010年没)
- イブン・フィルナース (887年没)
- アブー・ウバイド・バクリー (1094年没)