HISTORICAL PERSON · 1010年没

ムハンマド2世

後ウマイヤ朝コルドバの第4代カリフ。1009年に反乱でヒシャーム2世を廃して即位し、ベルベル人を弾圧・追放した。一度は敗れてトレドへ逃れたが1010年5月に復位し、同年6月に処刑された。

生涯
1010年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
スペイン王国(コルドバ)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

ムハンマド2世は、後ウマイヤ朝の第4代コルドバ・カリフで、称号をマフディーという。980年にコルドバで生まれ、1010年に同じ町で殺害された。即位前の名はムハンマド・イブン・ヒシャームである。ヒシャーム2世の子とも従兄弟ともいわれ、別の説明では、初代カリフの子アブド・アル・ジャッバールの子ヒシャームの子とされる。二度カリフの座に就いたが、いずれの在位も短かった。

当時、ヒシャーム2世は実権を宰相(ハージブ)たちに握られていた。1009年には、アルマンソルの子アブド・アル・ラフマーン・サンジュールが後継者に指名されることになった。クライシュ族やバヌー・マルワーン家はこの継承の正統性に異を唱え、ただちにムハンマドへ忠誠を誓った。ムハンマドは民衆の蜂起を率い、1009年2月15日にコルドバを押さえて、ヒシャーム2世を廃位して幽閉した。サンジュールはカスティーリャ遠征中だったが、コルドバに引き返す途中で軍に見放され、殺された。

即位したムハンマドは、イスラーム法にない税の一部を廃止して住民の歓心を買おうとした。一方でベルベル人を圧迫し、虐殺したうえ、多くを町から追放した。そのためサンジュールの支持者がアルマンソルに雇われていたベルベル人兵を決起させた。追われたベルベル人はカラトラバに集まって軍勢を整え、ハカム2世の子で、初代カリフの孫にあたるスライマーン・イブン・アル・ハカムをカリフに推した。スライマーンはベルベル人とカスティーリャ軍を率いて進み、カンティシュとアルコレア橋で勝利を収め、1009年11月9日にコルドバへ入ってカリフ位を取り戻した。ムハンマドは側近たちとトレドへ逃れた。別の記述では、スライマーンはトレドを包囲したが落とせなかったという。

トレドでは宰相ワーディフの助けを得て軍の再建に取りかかった。ワーディフは東方のサカーリバ(スラヴ系の奴隷出身者)の一部や、バルセロナ伯ラモン・ボレイ、ウルジェイ伯エルメンゴル1世らフランク系の伯と軍事同盟を結んだ。増強された軍で南下したムハンマドは、1010年5月22日にエスピエルでスライマーンのベルベル軍と戦って大勝し、コルドバに進んだ。スライマーンはアンダルス最南部へ退き、ムハンマドが再びカリフとなった。ムハンマドとフランク系の同盟者たちの勝利は大きなものだった。再度の即位の日付は5月10日とも伝わる。しかしコルドバでもベルベル人の支持は得られず、政権は不安定なままだった。ムハンマドはベルベル人の支持を得ようと試みたが、うまくいかなかった。ムハンマドはスライマーンらを追って南への攻撃を決めたが、1010年6月、ワーディフとフランク系の同盟軍はマルベーリャとグアディアロの戦いで敗れた。混乱の中でサカーリバの一派はワーディフのもとでムハンマドを見限り、ヒシャーム2世の復位をめざした。同盟軍は解体し、フランク系の伯たちは帰国した。ワーディフはコルドバに戻ってクーデターを起こした。

ムハンマドは女装して逃れようとしたとも伝えられるが、ワーディフに捕らえられ、裁判にかけられて1010年に処刑された。日付は6月23日とも7月23日ともされる。その死後、ヒシャーム2世が再び王座に就いた。のちのムスリムの歴史家は、1009年の革命の際にアーミル家の後宮から女性たちを奪ったと彼を非難し、またマディーナト・アッ・ザーヒラの破壊の責任を負わせた年代記もある。

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