伝記
ガルシア2世は、カスティーリャ王・レオン王フェルナンド1世とサンチャ・デ・レオンの末子で、兄弟の領土分割によってガリシア王となった。生年は1041年とも1043年4月ともされる。1064年9月11日にはモンドニェード司教スエロとの合意に名が現れ、父がこれを承認している。1065年の父の所領分割では、ガリシア伯領を王国へ格上げした領土を与えられた。南は現在のポルトガルのモンデゴ川まで延び、バダホスとセビリアの諸王から受ける貢納も付属した。長兄サンチョはカスティーリャ、次兄アルフォンソは拡大されたレオンを得た。ガルシアの領国では、前年にコインブラを奪回して南部の行政支配を立て直したばかりであり、旧来の伯家を弱めて貴族を王の直接統制下へ置く父の政策も完了していなかった。ルーゴとサンティアゴの司教の間にも主導権争いがあった。
即位後、有力貴族ガルシア・ムーニョスから所領のほぼすべてを強制的に差し出させた。王権を強めるため、ブラガ、ラメーゴ、トゥイの司教座を復興する計画も進めたが、1068年に長く在職したサンティアゴ司教が死去し、翌年にはその後継者が殺害された。この事件は王権への挑戦と受け取られるものであった。隣国のアルフォンソは、遅くとも1070年から不安定なガリシアへ関心を向けていた。ガルシアは南部の支配強化にも取り組み、1071年初め、反乱を起こしたポルトガル伯ヌノ・メンデスをペドローゾの戦いで破って殺した。しかしアルフォンソは、同年5月か6月初めにはガリシアとポルトガル北部へ侵攻した。サンチョも、ガルシアの旧領の一部を支配する見返りに、これを黙認したと考えられている。
兄たちの提携は長続きせず、サンチョはレオンを攻め、1072年にアルフォンソを破って追放した。続いてポルトガル中部のガルシアに矛先を向け、サンタレン付近で破った。ガルシアはカスティーリャで一時拘禁された後、セビリアへ逃れることを認められた。父が分割した領土はサンチョのもとで再統合され、ガルシアの独立した王国は失われた。しかし同年10月、サンチョは姉ウラカと貴族ペドロ・アンスーレスが率いる反乱の鎮圧中、サモラで暗殺された。追放されていた兄弟はともに北へ戻り、アルフォンソが再統合された王国を掌握した。
ガルシアが帰還した目的は復位であったのか、アルフォンソの安全の約束を信じたのか、明らかでない。1073年2月、兄との会見に招かれて捕らえられ、そのまま生涯を獄中で過ごした。監禁先はレオン近郊のルナ城だったと伝えられる。発熱後に受けた瀉血が原因で、1090年3月22日ごろに死去した。最期の日々と同じく鎖につながれた姿で葬られることを望み、レオンのサン・イシドロ聖堂の王家の墓所でも、その姿で表された。死去した時はレオンで公会議が開かれており、後に教皇パスカリス2世となる教皇使節レニエリら、多くの高位聖職者が葬儀に列席した。後に失われた墓碑銘は、ガルシアをポルトガルとガリシアの王と呼び、兄の計略によって捕らえられたと述べていた。長い投獄と盛大な埋葬は叙事詩人たちの関心を集め、12世紀半ばまでにはガルシアを扱う詩作品が作られていた。
同じ年に亡くなった人物
- スノッリ・ソルフィンスソン (1090年没)
- モンテカッシーノのアマート (1090年没)
- ポワチエのウィリアム (1090年没)
- シセルガティア (1090年没)
- アデライード・ド・ノルマンディー (1030-1090) (1090年)
同じ地域に関係する人物
- ムニアドナ・デ・カスティーリャ (1066年没)
- ラミロ3世 (レオン王) (985年没)
- エンリケ (ポルトゥカーレ伯) (1112年没)
- クリストバル・アルフテル (2021年没)
- ライムンド・デ・ボルゴーニャ (1107年没)