伝記
ミカエル7世ドゥーカスは、コンスタンティノス10世ドゥーカスとエウドキア・マクレンボリティサの子で、1050年ごろに生まれた東ローマ皇帝である。父が皇帝となった後、1059年から共同皇帝の地位に就いた。父の即位前に生まれていたため、即位後に生まれた弟コンスタンティオスのような「紫衣の中に生まれた者」という資格を持たなかった。内気で書物を好み、文章や哲学に親しんだが、発話にも難があったとされる。1065年にはグルジアの王女マリアと結婚し、息子コンスタンティノスをもうけた。
1067年に父が没すると、母エウドキアが政務を担った。父は再婚によって息子たちの継承が脅かされることを恐れ、死ぬ前にエウドキアへ再婚しないと誓わせていた。しかし、セルジューク朝による国境への脅威や宮廷での陰謀に対処するため、母は有力な軍人を夫に迎える道を選んだ。誓約を解かれたエウドキアは1068年、ロマノス・ディオゲネスと結婚し、夫はロマノス4世として帝位に就いた。ドゥーカス家の当主で父の弟に当たるカエサルのヨハネスは、軍人による政権掌握に反対した。ロマノスは自ら軍を率いることで権威を固め、文官や軍の首脳たちの関心をトルコ人との戦争へ向けようとした。さらにエウドキアとロマノスの間には1069年にレオン、1070年にニケフォロスが生まれ、ミカエルらの継承には新たな競争相手が加わった。
1071年、ロマノス4世がマンズィケルトの戦いで敗れて捕虜になると、ミカエルは単独の皇帝となった。ヨハネス・ドゥーカスは追放先のビテュニアから急いで戻り、ミカエル・プセルロスやヴァリャーグ親衛隊とともに動いた。釈放されたロマノスは新たな帝位を認めず抵抗したが、捕らえられ、盲目にされて追放された。この内紛でロマノスが結んだ和議は反故となり、セルジューク朝の侵入が進んで、小アジアの領土の大半が失われていった。同じ1071年には、ノルマン人が南イタリアで最後に残っていた拠点バーリを陥落させ、帝国の南イタリア支配も終わった。
相次ぐ戦争と内紛で経済も揺らぐ中、ミカエルは宦官ニケフォリツィスを重用し、穀物取引の専売化によって価格を統制しようとした。しかし穀物をはじめ物価は上がり、怒った民衆が政府の倉庫を襲って破壊した。「パラピナケス」というあだ名は「4分の1を失った」という意味で、それまで金貨1ノミスマで1メディムノス買えたものが、4分の3しか買えなくなったことに由来する。1075年には妹テオドラをヴェネツィアの元首ドメニコ・セルヴォへ嫁がせた。末妹ゾエも、アレクシオス・コムネノスの弟アドリアヌスと結婚した。一方、国内ではノルマン人傭兵の隊長ルセール・ド・バイユールをはじめ、軍事貴族たちの反乱が続いた。
ニケフォロス・ブリュエンニオスやニケフォロス・ボタネイアテスも反旗を翻し、1078年1月7日、首都コンスタンティノポリスの民衆はハギア・ソフィア大聖堂で、まだ小アジアにいたボタネイアテスを皇帝に擁立した。ボタネイアテスが首都へ進軍し、市内でも反乱が起こると、ミカエルは退位して修道院に入った。没年は1090年ごろとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ロベール (モルタン伯) (1090年代没)
- コンスタンス・ド・ノルマンディー (1090年没)
- シセルガティア (1090年没)
- ガルシーア2世 (1090年没)
- ニケタス・ステタトス (1090年没)
同じ地域に関係する人物
- Bedrifelek Kadin (1930年没)
- Bulent Eken (2016年没)
- シュクリュ・サラジオウル (1953年没)
- Alexander Ypsilantis (1807年没)
- コンスタンティノス6世 (797年没)