伝記
コンスタンティノス6世は771年1月14日に生まれた。東ローマ帝国イサウリア朝の第4代皇帝で、父は先帝レオーン4世、母はアテナイ出身のエイレーネーである。父は776年、軍の求めによるとされるかたちで幼い息子を共同皇帝に立て、将校や首都の同職組合の代表に忠誠を誓わせた。これは、父の弟で、すでにカエサルの称号を持つ二人の叔父が帝位を望むのを退ける意味を持っていた。780年に父が炭疽病で急死すると、幼くして即位した。年齢は九歳とも十歳ともいわれる。父の治世は短く、この時期の政治はイコン破壊をめぐる対立に強く左右されていた。父自身は先帝ほど過激ではなく、聖画像を尊ぶ者を迫害することは控えたが、妻エイレーネーの居室にイコンを持ち込んだ疑いで宮廷の高官五人を罰したこともあった。
当時の軍、政府、聖職者は約五十年にわたってイコン破壊を支持してきたが、摂政となった母は聖画像を尊ぶ立場で知られていた。女性である母は軍を率いることができず、宦官スタウラキオスを重用して官僚の支持を得たものの、軍の反感も招いた。即位直後には、イコン破壊派の高官らが皇帝の叔父ニケフォロスを帝位に就けようと企てたが、母はこれを素早く抑え、叔父たちを聖職者にして降誕祭の日に聖餐を授けさせ、「改心」の証とした。アナトリアの軍も叔父を支持して反乱を起こし、その指揮官は厳しく罰せられた。治世の初めには、シチリア総督が独立を宣言してアラブ側につき、カリフの子ハールーン・アッ=ラシードが大軍を率いて攻め寄せるなど、危機が続いた。母の下で少年皇帝はニカイア第二公会議の決議文書に署名し、イコン破壊は廃された。一方、母と不仲だった皇帝はむしろイコン破壊派と結びつき、やがてその一派とも対立したともいわれる。
790年、皇帝は将軍ミカエル・ラカノドラコンの助けを得て母を退けた。しかし外ではアラブ人やブルガリア人に対して振るわず、内政も安定せず、792年には母を呼び戻さざるをえなかった。祖父コンスタンティノス5世にならって第一次ブルガリア帝国へ親征した際には、恐れて戦わずに逃げるという失態を演じ、軍や高官の支持も失ったと伝えられる。私生活も波乱に富んだ。当初はカール大帝の娘ロトルートと婚約していたが、イコン復活策が採られた後に解消された。次に小アジアの没落した地主の娘マリアと結婚して二人の娘をもうけたが、795年に離婚して彼女を修道院に入れ、宮廷の女官テオドテーと再婚した。この離婚と再婚は教会内に「姦通派の分裂」と呼ばれる争いを生んだ。
797年、母は軍を動かして皇帝を捕らえ、実の息子の目をえぐって追放した。母は自らローマ帝国初の女帝を名乗り、西方ではフランク王カールがローマ教皇レオ3世から皇帝として戴冠された。この惨い仕打ちから、皇帝は「盲目の人」とも呼ばれる。追放後は首都の外の修道院に入ったとも、首都の片隅でひっそり暮らしたともいわれ、詳細は不明である。没年も分からず、805年より前に亡くなったと考えられている。二度目の結婚で生まれた二人の息子はいずれも幼くして亡くなった。娘エウフロシュネはのちにミカエル2世の二度目の皇后となり、継子テオフィロスの後見として一時摂政を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- ベルムード1世 (797年没)
- シーバワイヒ (797年)
- Abdullah ibn Mubarak (797年没)
- ブクティス (797年(推定))
- マウリツィオ・ガルバイオ (797年)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・パシメレス (1310年没)
- マリア・コムネナ (ハンガリー王妃) (1190年没)
- Naum Veqilharxhi (1846年没)
- Patriarch Fotios II of Constantinople (1935年没)
- アルダブリウス (447年の執政官) (471年没)