伝記
シャラモンは、一〇五三年にハンガリー王アンドラーシュ一世と王妃アナスタシヤの長男として生まれた。母はキエフ大公ヤロスラフ一世の娘である。誕生以前には、父の弟ベーラが次の王になると考えられていたが、父は息子への継承を図り、一〇五七年または翌年に幼いシャラモンを戴冠させた。一〇五八年にはドイツ王ハインリヒ四世との和平に伴い、その妹ユディトとの婚約も結ばれた。叔父ベーラはポーランドへ出奔し、一〇六〇年に援軍とともに戻って王軍を破った。父は戦いで致命傷を負い、シャラモンは母とオーストリアへ逃れた。
一〇六三年にドイツ側の支援による帰還が実現した。ベーラは同年九月に死去し、その息子ゲーザ、ラースロー、ランペルトはポーランドへ逃れた。シャラモンはセーケシュフェヘールヴァールで再び戴冠し、ユディトと結婚した。しかしドイツ軍が去ると、従兄弟たちがポーランドの援軍を伴って戻り、シャラモンは西の国境にあるモションへ退いた。司教たちが内戦を防ごうと仲介し、一〇六四年一月に和解が成立した。ゲーザらは王の地位を認め、代わりに父が治めていた王国の三分の一に当たる公領を受け取った。復活祭にはペーチでともに祝い、ゲーザが王の頭上に冠を置いて和解を示した。以後は共同して軍事行動を行い、一〇六七年にはヴェネツィアの侵攻を受けたクロアチアを援助し、翌年にはトランシルヴァニアへ侵入した遊牧民の軍を破った。
一〇七一年、王と従兄弟たちは東ローマ帝国に遠征し、二か月の包囲の末にベオグラードを攻略した。だが守備側の司令官は王ではなくゲーザに降伏し、公たちは王の許可を得ずに捕虜を解放した。翌年に帝国が同市を取り戻すと再び出兵したが、ゲーザは王が留守中の公領を奪うことを疑ったという。一〇七三年以後、両者の争いは激しくなり、ゲーザらはポーランドとボヘミアの支援を得た。一〇七四年三月十四日、シャラモンはモジョロードの戦いで敗れ、西部国境へ退いた。ゲーザが王位に就く一方、義兄ハインリヒ四世に援助を求め、同年八月にはその軍がヴァーチまで進んだ。しかしザクセンの反乱により軍は撤退し、シャラモンの支配地はポジョニ付近に限られた。
ゲーザ軍によるポジョニの包囲は退けたものの、一〇七七年にゲーザが死去すると、弟ラースローが王位を継いだ。一〇七九年にはラースローに要塞を奪われ、頼みとしたドイツ側の軍も敗れた。一〇八一年にラースローの王位を認めて正式に退位し、多くの所領を与えられたが、その後、王の殺害を企てた疑いで投獄された。一〇八三年八月、初代国王イシュトヴァーン一世の列聖に伴う恩赦で釈放されると、レーゲンスブルクへ赴き、再び義兄に軍事援助を求めた。これが実らず、モルダヴィアのペチェネグ族の長クテシュクと同盟し、その娘と結婚した。まだユディトとの婚姻は続いていた。援軍と引き換えに領土を渡すと約束して復位を目指したが、一〇八五年の侵攻はラースローに撃退された。一〇八七年、ペチェネグ族による東ローマ領への遠征に加わり、アドリアノープル近郊で戦死したとされる。一方、戦場を生き延びてプーラに隠棲し、修道生活のうちに没したという伝説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ウィクトル3世 (ローマ教皇) (1087年没)
- ギヨーム1世 (ブルゴーニュ伯) (1087年没)
- ベルタ・ディ・サヴォイア (1087年没)
- ウスタシュ2世 (ブローニュ伯) (1087年)
- ドブロネガ・ウラジミロヴナ (1087年没)
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