伝記
エルメンゴル1世は、974年に生まれ、1010年に没したとされるウルジェイ伯である。「コルドバの人」と呼ばれ、アルメンゴル、エルメンゴーなどとも表記される。バルセロナ伯ボレイ2世と最初の妃レトガルダの次男で、992年から亡くなるまでウルジェイ伯を務めた。それ以前の989年から992年までは父とともに統治したとされる。ウルジェイ伯家の二代目にあたり、この家系を独立した系統として始めた人物とされ、主にレコンキスタへの参加で知られる。没年を1011年、享年を37歳とする記述もある。
文化の素養のある人で、ヨーロッパ全体からの影響に対して開かれた姿勢をとったと評される。998年と1001年の二度にわたってローマへ旅をした。また家臣の貴族たちに、サンティアゴ・デ・コンポステーラやル・ピュイへの巡礼を促した。領内では司法を改革し、より多くの人が裁きを受けやすくした。さらに、独立して振る舞っていた辺境の城主たちに対し、伯としての権威を取り戻す取り組みにも着手した。
一方で、コルドバのカリフ国とは激しい戦いを続けた。1003年にはアブド・アル・マリク・アル・ムザッファルがウルジェイに侵入した。エルメンゴルはベサルー伯ベルナト1世、セルダーニャ伯ギフレ2世、それに兄弟であるバルセロナ伯ラモン・ボレイの助けを得てこれを迎え撃ち、トラの戦いで破り、続くアルベサの戦いでは辛うじて勝利したという。その夏の報復の中で、コルドバのハージブであるアブド・アル・マリクに捕らえられたが、1004年3月までには解放されている。別の記述は、1004年にレリダのイスラーム勢力との戦いでアルベサで捕虜になったとし、トラの戦いを1006年のアブド・アル・マリクの再侵入に対する勝利とする。1008年にはイスラーム勢力に対する遠征を何度か指揮し、成功を収めた。
1010年には、兄弟ラモン・ボレイがコルドバそのものに向けて行った遠征に加わった。エルメンゴルはその途上、近くのバカル城で亡くなったとされるが、グアディアロの戦いで戦死したとする記述もある。遺言書は1010年ごろの日付をもち、西ヨーロッパでチェスの遊戯に触れた最も早い例の一つが含まれている。
結婚は二度あった。1000年7月10日より前に、おそらくフォレ伯アルトー1世の娘とされるテトベルガと結婚した。だが彼女は1005年4月から11月の間に世を去り、その後に二人目の妃ギスラが初めて文書に現れる。ギスラの家系は不明だが、ルシヨン伯ゴースフレド1世の同名の娘かもしれないという。ギスラは夫より長く生き、1010年11月18日にはなお存命だった。この結婚から二人の子が生まれた。後を継いだエルメンゴル2世と、1029年より前にパリャルス・ジュッサ伯ライムンド3世に嫁いだエルメシンダである。別の記述は、1009年生まれで「巡礼者」と呼ばれたエルメンゴル2世を、最初の妻テトベルガとの間の子とする。
同じ年に亡くなった人物
- オトン (下ロレーヌ公) (1010年代没)
- ベルト・ド・ブルゴーニュ (1010年没)
- ゲルベルガ・フォン・ブルグント (1010年代没)
- ムハンマド2世 (1010年没)
- エインシャムのエルフリクス (1010年没)
同じ地域に関係する人物
- フアン・マヌエル (1349年没)
- イブン・フィルナース (887年没)
- ヒシャーム1世 (796年没)
- インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ (1616年没)
- トレド王マアムーン (1075年没)