伝記
クヌーズ4世は、1042年ごろ、デンマーク王スヴェン2世と名の伝わらない愛妾の間に生まれた。1069年には父によるイングランド襲撃に参加し、1075年の遠征でも指導者の一人となった。帰路にデンマーク艦隊はフランドルへ立ち寄った。フランドルもイングランド王ウィリアム1世と敵対しており、両者は同盟関係を持った。スヴェン2世の死後は兄ハーラル3世が王に選ばれ、クヌーズはスウェーデンへ亡命した。兄への反対運動に関わった可能性がある。1080年4月17日にハーラルが死ぬと王位を継ぎ、フランドル伯ロベール1世の娘アデルと結婚した。
即位後は王権の強化と教会の保護を進めた。教会の祝日を厳格に守るよう求め、ダルビー、オーデンセ、ロスキレ、ヴィボー、特にルンドの教会へ多額の寄進を行い、十分の一税の徴収を強制しようとした。貴族を法に従わせ、共有地や難破船の財産、外国人や親族のない者の遺産に対する権利を国王に帰属させる勅令も出した。また、解放された奴隷や外国人の聖職者、商人を保護する法律を制定した。こうした政策は、国王による権力の主張や日常生活への介入に慣れていない臣下の不満を招いた。1084年、王妃アデルとの間に息子シャルルが生まれた。
1085年5月、建設中のルンド大聖堂へ、スコーネ、シェラン島、アマー島の広い所領を寄進し、大聖堂付属学校を創設した。寄進地の多くは、罪を犯した臣下を赦す代償として集めたものであった。ルンドの聖職者には領民への課税と罰金徴収の特権を与えたが、国王自身は赦免権や、軍役の招集に応じない者へ罰金を科す権利を保持した。同年、義父ロベールとノルウェー王オーラヴ3世の支援を得て、イングランド侵攻を計画し、リムフィヨルドへ艦隊を集めた。クヌーズ大王の大甥である自分にイングランド王位の権利があると考えていた。しかし、皇帝ハインリヒ4世の脅威を警戒してシュレースヴィヒにとどまり、艦隊は出航しなかった。
艦隊の兵の多くは収穫期に帰郷する必要のある農民で、待機が長引くと弟オーロフを代表に選び、訴えを取り次がせた。クヌーズはこれを疑い、オーロフを捕らえてフランドルへ送った。やがて軍は解散し、農民は収穫に戻った。1085年から1086年ごろには、双子の娘セシリアとインゲギアトが生まれた。1086年初め、王の滞在するヴェンシュセルで農民反乱が起こった。王はシュレースヴィヒを経てオーデンセへ逃れ、7月10日、木造の聖アルバン修道院に避難した。反乱者は教会へ突入し、祭壇前でクヌーズと弟ベネディクト、十七人の従者を殺した。弟オーロフが王位を継いだ。
死後は教会を擁護した殉教者とみなされ、墓で奇跡が起きたと報じられた。オーロフの治世に続いた不作は、その殺害に対する神の報復と受け取られ、列聖が求められた。1101年4月19日、エーリク1世が派遣した使節の働きかけにより、教皇パスカリス2世が崇敬を認めた。クヌーズは聖王とも呼ばれ、列聖された最初のデンマーク王となり、デンマークの守護聖人として認められた。祝日は7月10日とされた。1300年、クヌーズとベネディクトの遺体は聖クヌーズ大聖堂に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ギヨーム8世 (アキテーヌ公) (1086年没)
- 司馬光 (1086年没)
- ヤロポルク・イジャスラヴィチ (1086年没)
- 王安石 (1086年没)
- コンラート1世 (ルクセンブルク伯) (1086年没)
同じ地域に関係する人物
- フレゼリク・クリスチャン1世 (1794年没)
- エミールオーレストループ (1856年没)
- ピート・ハイン (数学者) (1996年没)
- アンデシュ・サンデー・エルステド (1860年没)
- クリスティーナ・フォン・ザクセン (1461-1521) (1521年没)