HISTORICAL PERSON · 1086年没

司馬光

北宋の政治家・歴史家で、旧法派の領袖。神童として知られ、王安石の新法に反対して洛陽に退き、『資治通鑑』を完成させた。哲宗の即位後は宰相となって新法を廃止したが、在任8か月で病死した。

生涯
1086年没
死亡地
中華人民共和国(甘粛省 / 中国)
出生地
中華人民共和国(夏県)
出典
世界地図
中華人民共和国(甘粛省)

伝記

司馬光は、1019年11月17日に生まれた北宋の儒学者、歴史家、政治家である。字は君実、号は迂叟で、陝州夏県涑水郷の家の出身であった。父司馬池も官僚で、高祖父、曾祖父、祖父はいずれも進士であった。一族は司馬懿の弟司馬孚の子孫と伝えられる。幼少時から学問に親しみ、六、七歳のころに左氏春秋の講義を聞くと、帰宅後に家族へ内容を語り直したという。また、遊び仲間が水の入った大きな甕へ落ちたとき、石で甕を割って水を抜き、救い出したという逸話がある。

1038年に進士となり、官職を歴任した。1061年には政府の運営を改善するための上奏を行った。その政治観では、制度の構造よりも運用する人間を重んじ、統治者の任官、賞罰、徳行を重視した。社会の上下関係が明確であることを安定の条件とし、商業の成長が社会を変えることを好まなかった。倫理を自分の社会的地位の受容と結びつけ、修養においては抑制を重んじた。荀子の、人間は本来悪であるという説にも賛同し、孟子が上下関係の転覆を勧めたとして批判する著作を残した。科挙では推薦を基礎とする仕組みを好んだ。君主は外部の影響に左右されず、臣下を気遣うべきだと考えた。1064年には英宗の実父と先帝仁宗に対する祭祀の優先順位を問題とし、儀礼上の父である仁宗を優先すべきだと主張したが、英宗は1066年に実父へ高い礼遇を与えた。同年、司馬光は蘇轍を特別な制科の受験に推薦した。英宗の時代には歴史書の編纂を構想し、皇帝から特別の便宜と完成への期待を寄せられた。

1067年に神宗が即位し、王安石を登用して新法を進めると、司馬光は旧法派の中心として対立した。初めは改革に賛成したが、王安石が官僚の既得権に踏み込むと反対へ転じ、枢密院を拠点とする反対派と結んだ。国家の権限と支出を増やす政策に反対し、財政規模を抑えた漸進的な改革を求めた。対外政策では積極的な領土拡張に反対し、ウイグル、チベット、西夏、遼に対して防衛的な姿勢を支持した。王安石が譲歩しても新法の撤回を要求し、ついに朝廷を退いて洛陽に暮らした。

洛陽では歴史研究と著述に力を注いだ。朝廷を離れてからも神宗の信頼を受け、編纂中の歴史書に『資治通鑑』という名を与えられた。紀伝体が主流の時代に編年体を採り、春秋時代の後から宋以前の五代までを扱った書である。編纂には劉恕、漢代史を研究した劉攽、唐代を担当したとされる弟子范祖禹らが協力した。集め得る記録をまとめたうえで司馬光が手を加え、皇帝の統治に役立てるための歴史書に仕上げた。1084年に完成した書を神宗へ献上した。

1085年、神宗が死去して十歳の哲宗が即位すると、摂政の宣仁太后高氏の命により宰相として中央に戻った。新法を全面的に廃止し、実施以前の法へ戻す方針をとったが、蘇軾ら同じく新法に反対していた友人や部下からも、その徹底ぶりを批判された。多くの官僚が司馬光の発言に追随し、免役法も変更された。その弊害は以後十年近く影響したとされる。新法廃止を進めたものの、宰相在任八か月で病死した。没日は1086年10月11日である。文正と諡され、温国公の爵位を贈られたため、司馬文正公、司馬温公とも呼ばれた。涑水先生の呼び名もある。

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