伝記
ギヨーム8世は、1025年ごろ、アキテーヌ公ギヨーム5世と三番目の妃アニェス・ド・ブルゴーニュの子として生まれた。生年には1024年説や1027年説もある。母はブルゴーニュ伯オット=ギヨームの娘である。出生時の洗礼名はギーで、同母の双子の兄は後のギヨーム7世である。父は異母兄ギヨーム6世へ公位を譲り、マイユゼの修道院に入ってから死去した。母はアンジュー伯ジョフロワ2世マルテルと再婚し、ギーは兄とともに幼少期をアンジューで過ごした。継父の名にちなみ、ギー=ジョフロワと呼ばれた。
最初の妃はペリゴール伯アルダベール2世の娘ガルサンドであった。妃は母アロージーから受け継いだガスコーニュ公領への権利を持参したが、この婚姻では子を得られなかった。1052年、兄ギヨーム7世の統治中に、ガスコーニュ公ベルナール2世から公位を取得した。ベルナールは異母姉アダライスの息子で、甥に当たり、公位の売買額は15000ソルであったとされる。ベルナールにはアルマニャック伯領が残された。1058年、兄が後継の子を残さず死ぬと、アキテーヌ公位を継ぎ、ギヨームの名を用いるようになった。ポワティエ伯としてはギヨーム6世に当たる。同年に最初の妃と離婚し、妃はサントの修道院へ入った。1058年から1059年ごろに、出自の明らかでないマティルドと再婚した。
統治の初めには、臣下を服従させるための戦いが続いた。1060年、ボルドーを攻撃したトゥールーズ伯からトゥールーズを奪った。1061年にはブトンヌ川の水源付近でジョフロワ・マルテルの甥たちに敗れたが、1062年にサントを獲得し、サントンジュの支配を進めた。これによって、サントを通る道で二つの中心地ポワティエとボルドーを結びやすくなった。同年にはラ・カステルの戦いでガスコーニュのベルナールを破り、翌年にはアルマニャック伯に勝って同地の権威を回復した。1063年とも1064年ともされるバルバストロ遠征では、教皇アレクサンデル2世の呼びかけに応じた連合軍の指導者の一人となった。都市は攻略され、住民が殺されて多くの戦利品が得られたが、翌年には奪い返された。
1067年にはサントに新たな行政職を置いた。二番目の妃マティルドとの間には娘アニェスがいたが、1068年ごろに不妊を理由として離婚した。三番目の妃となったのは、ブルゴーニュ公ロベール1世の娘イルドガルドである。二人は血縁関係にあったため、この結婚の承認を得るためにローマの教皇のもとへ赴いた。教皇は当初別居を求めたが、のちに特免を与えた。夫妻の間には1071年に跡継ぎのギヨーム、1072年に娘アニェスが生まれ、ほかに息子ユーグがいた。
1075年、行政のためにセネシャルの職を設け、ピエール・ブリディエを任命した。また、ポワティエに福音記者ヨハネへ捧げるモンティエルヌフ修道院を建立し、クリュニーに委ねた。1079年にはジェラール・ド・コルビーとともに、ジロンドのラ・ソーヴ=マジュール修道院を創設した。同院はベネディクト会の修道院となった。1086年9月25日、シゼの城で死去した。息子ギヨームがアキテーヌ公位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート1世 (ルクセンブルク伯) (1086年没)
- グレゴリウス・パクリアノス (1086年没)
- リシルド・ド・エノー (1086年没)
- ヤロポルク・イジャスラヴィチ (1086年没)
- クヌーズ4世 (デンマーク王) (1086年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・ダンジュー (1463年没)
- ウード・ド・ポワティエ (1039年没)
- ルネ・ギル (1925年没)
- マルティン・バンゲマン (2022年没)
- フィリップ・ド・モルネー (1623年没)