伝記
邵雍は北宋の儒学者で、字を堯夫といい、百源先生、安楽先生とも呼ばれた。祖先の出身地は涿州范陽で、誕生は1011年とも1012年ともされる。父の邵古は文字や語義を研究する学者であり、幼い邵雍に儒教の六経を教えた。母の李氏は熱心な仏教信者で、邵雍もまた僧侶が運営する私塾などで学んだ。幼少期に一家は衛州共城県へ移り、蘇門山の百源に住んだ。若いころの邵雍は自負が強く、自分の才能によって古代の聖王の事業も実現できると考えたという。百源のほとりに庵を構え、厳しい勉学を続けた。
母の死後、邵雍は李之才に出会った。李之才は古文を研究した穆修の門下にあたり、宋初の隠者陳摶につながる易学を伝えていた。邵雍は李之才から『易経』の河図洛書や先天象数の学を授かった。やがて自分の学問が狭いことを自覚し、各地を巡って学者に教えを求め、見聞を広げた。しかし、道は外を探すだけでは得られないと悟り、帰郷して易学の思索を深めた。39歳ごろには洛陽へ移住し、以後は死ぬまで同地で教えた。生涯を通じて官職を避け、貧しい暮らしを送りながらも、富弼、司馬光、程顥、程頤、張載らと交わった。ものにこだわらない豪放な人柄で、洛陽の人々から親しまれたという。
洛陽で交流した思想家たちは、『易経』を重視し、孟子に連なる儒学の立場を明らかにしようとした。仏教や道教との関係を問い直す点でも共通していたが、易の読み方では邵雍に独自の方法があった。程氏兄弟らが言葉の意味や道徳上の原理を中心に考えたのに対し、邵雍は卦の形と数に注目する象数学を進めた。数を手がかりに、万物が生まれる仕組みや宇宙の変化する周期を説明しようとしたのである。その方法には、一から二、二から四、四から八へと倍に増やし、六十四へ至る「加一倍の法」があった。また四季の四、十干の十、十二支の十二、一世を三十年とする数などを掛け合わせ、世界の秩序と歴史の推移を計算しようとした。
その学説をまとめた著作が『皇極経世書』である。親友の司馬光は揚雄の『太玄経』を校訂しており、同書の三を基にした数の体系も邵雍の考察にかかわった。邵雍は易の六十四卦を二進的な順序に配列し、この配列は後世のライプニッツによる二進法の思索にも影響した。数を通して理を考える姿勢は、朱熹の易学にも影響を与えたとされる。占いの方法である梅花易も邵雍に結びつけられている。晩年、天津橋でホトトギスの声を聞いて王安石の出現と政治の混乱を予言したという逸話も伝わるが、これは邵雍に帰せられた易の占験の一つである。詩作と囲碁も好み、『伊川撃壌集』を残したほか、囲碁を観戦して詠んだ長い賦も作っている。1077年に死去し、康節と諡された。1630年には子孫に五経博士の称号が授けられた。
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