伝記
張角は、後漢末期に太平道を創始し、黄巾の乱を引き起こした人物である。生年は不明で、184年に没した。冀州鉅鹿郡、現在の河北省石家荘市藁城区の出身とされ、弟に張宝と張梁がいる。黄老を奉じて道教の一派である太平道を率いた。なお、没年から逆算して140年ごろの生まれと推測する説もあり、44歳で亡くなったともいわれるが、確かなことは分からない。
張角は自ら大賢良師と称し、太平道の信者を集めて養っていた。信者に平伏して罪を懺悔させ、符水を飲ませて病を癒したため、人々の信奉を集めたという。おそらく当初は、各地に数多くいた治療者の一人にすぎなかったと考えられている。しかし、村から村へ移りながら病人を癒し、そのたびに自らの考えを説いたことで、しだいに名が知られるようになったとされる。その教えは口づてに広まり、10余年のうちに数十万人の信者を8つの州で獲得するに至った。張角は信者を36の方に分け、それぞれの方に渠帥を置いて管轄させた。表向きは善い道によって天下を教化しているように見せながら、内部では結束して黄天の世をつくろうと画策していたと伝えられる。
背景には、後漢の政治の腐敗、重い税、飢饉や洪水があった。こうした災いから、漢はすでに天命を失ったという噂が広がっていたとされる。張角は、蒼天はすでに死に、黄天が立つ、甲子の年に天下は大いに吉となる、という趣旨の標語を掲げた。洛陽の城門や州郡の役所には白い土で甲子の字を書き、造反の意思を示した。
光和7年、すなわち184年、人身御供を捧げて天を祭り、一斉に蜂起した。反乱軍は州郡の役所を焼き払い、長官を殺害し、集落を略奪した。頭に黄色い布を巻いたことから、この乱は黄巾の乱と呼ばれる。ただし、この呼び名は乱に加わらなかった人々がつけたもので、反乱側は太平の道、天の道などと呼んだともいわれる。張角は天公将軍を称し、弟の張宝は地公将軍、張梁は人公将軍と称したとされる。乱の初めには広い地域を制圧したが、夏以降は皇甫嵩や朱儁ら後漢朝廷の軍の働きによって、急速に鎮まっていった。張角は広宗に拠って抵抗したが、病にかかり、同年に亡くなった。10月に広宗が陥落すると、討伐軍は棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬った首を洛陽で木に吊るしたという。弟の張宝と張梁は、兄の死後もその後を継いで戦ったとされるが、のちに敗れて命を落とした。
張角の死後も、黄巾を名乗る蜂起は各地で続いた。北宮伯玉、韓遂、張燕、張脩ら黄巾以外の反乱軍も相次いで蜂起し、後漢朝廷の手に負えなくなっていった。この事件ののち、後漢の権威は地に落ちたといわれる。やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操が勢力を伸ばし、孫権、劉備を加えた三者が並び立つ三国時代が訪れる。張角自身は三国の時代を見ることはなかったが、その乱が時代の転換を呼んだと見られている。小説『三国志演義』では、張角、張宝、張梁の3兄弟は郷試に合格できなかった秀才として登場する。山で薬草を採っていたところ南華老仙に出会い、太平要術3巻を授けられ、天に代わって世の人々を救うよう命じられる。悪用すれば報いを受けるとも警告された。これにより風雨を呼ぶ力を身につけ、太平道人と号したという。疫病が起こると符水で人々を癒し、大賢良師と名乗る。その後は史実と同じく乱を起こし、乱のさなかに死ぬ。なお、演義が記す中平元年正月という時期は、史実の中平元年が12月から始まるため、実際には存在しない年月である。