伝記
ゴットフリート4世は、1069年から1076年まで下ロートリンゲン公を務め、背中の身体的特徴からせむし公と呼ばれたアルデンヌ家の君主である。1040年頃、ゴットフリート3世と先妻ドダの長男として生まれた。父は上ロートリンゲン、ついで下ロートリンゲンの公となった人物である。1054年、父がトスカーナ辺境伯ボニファーチオの未亡人ベアトリクスと再婚した際、その娘マティルデと婚約した。父が死去した1069年末に公位を継ぎ、ヴェルダン伯も務めた。支配を始めた頃には、教会への多額の寄進を定めた父の遺言をすべて実行することを拒み、聖職者たちと争っている。
マティルデとの結婚は1069年とも1071年ともいわれ、この婚姻によってトスカーナ辺境伯ともなった。夫婦はロートリンゲンで暮らし、1071年頃に子を得たが、その子は早く亡くなった。二人の婚姻は長く共同生活を続けるものにはならず、マティルデは1072年には母のいるマントヴァへ戻った。ゴットフリートは同年秋に妻のもとへ赴いたものの、和解して共に暮らすには至らなかった。
1071年と1073年にはフランドル伯ロベールと戦い、相手を破ってフリースラントの土地も獲得した。1073年8月には一人でロートリンゲンへ帰った。イタリアでの活動は限られ、政治や軍事の活動の場は主としてドイツにあった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と緊密な関係を結び、帝国内で大きな影響を持つ諸侯の一人となった。とくにザクセンとの争いでは皇帝の有力な支えであった。1073年10月のゲルシュトゥンゲンでの取り決めでは、ゴットフリートを含む皇帝側の使者が別の王の選出を認めると密約したともいわれるが、その行動は明確でない。他方、皇帝への軍事的な支援は続き、1075年にはザクセン公マグヌスに対して出兵した。ウンシュトルトでの戦いではその軍勢が決着に力を及ぼし、その後の軍備と交渉でも反乱側の降伏に関わった。
叙任権をめぐる皇帝と教皇グレゴリウス7世の対立では、教皇を支持する妻とは反対に、ハインリヒ4世の側に立った。教皇はノルマン人に対する援軍を出せばサルデーニャを封与すると申し出たが、ゴットフリートは応じなかったとされる。1076年1月24日、ほかの主要な俗人諸侯が欠席する中、ヴォルムスの帝国集会に参加し、教皇廃位の決定に加わった。新たに選出される教皇をローマへ送り届ける意向も示した。同年、ホラント伯ディルク5世とフランドル伯ロベールに攻められたユトレヒト司教を支援した。
その直後、以前に獲得したフリースラント方面へ赴き、フラールディンゲンで襲撃を受けて致命傷を負った。襲撃者は敵対するホラント伯の家臣で、用便中に槍で刺されたとも伝えられる。1076年2月26日または27日に死去し、遺骸はヴェルダンに葬られた。子が生き残っていなかったため、マティルデの反対を押して、姉妹イダとブローニュ伯ウスタシュ2世の息子ゴドフロワ・ド・ブイヨンを後継者に指名していた。しかし皇帝は自身の息子コンラートに公位を与えた。ゴドフロワが下ロートリンゲン公となったのは後年で、やがて第1回十字軍で知られるようになる。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ハイヤーン・クルトゥビー (1076年没)
- ユースフ・ハーッス・ハージブ (1076年(推定))
- スヴャトスラウ2世 (1076年没)
- ガギク2世 (1076年没)
- ウォルシオフ (ノーサンブリア伯) (1076年)
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